マンガ雑誌が隆盛を極めていた1985〜95年に何が起きていたのか、当時を知る編集者の証言から解き明かす。第3回は「週刊少年ジャンプ」元編集長・茨木政彦(いばらき・まさひこ)へ取材。創刊から10年ほどで300万部、次の10年で倍の600万部と部数を伸ばし、少年誌のトップを走り続ける「週刊少年ジャンプ」編集部の秘訣を探った。
茨木政彦
『北斗の拳』が起爆剤に
集英社の「週刊少年ジャンプ」は1968年7月の創刊。当初は月2回刊だったが、69年から週刊に切り替わった。前身は同社の月刊誌「少年ブック」で、創刊編集長は「少年ブック」でも編集長だった長野規。当初は「少年ブック」の執筆陣だった貝塚ひろしらが連載の柱になっていた。
先行する「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」の三誌と比較して作家陣が手薄だったことから、新人の起用を積極的に行い、作家の専属制をいち早く取り入れたことでも知られている。
発行部数は1979年に300万部を記録しトップだったが、83年にはラブコメ路線で228万部まで伸ばした「週刊少年サンデー」に肉薄されることになる。
現在、集英社常務取締役と小学館集英社プロダクション取締役を兼務する茨木政彦が「週刊少年ジャンプ」編集部に配属されたのは、風雲急を告げていた1982年のことだった。3年先輩には5代目編集長になる堀江信彦、6年先輩には6代目編集長になる鳥嶋和彦がいた。
「そんなこともありましたかね。正直言えばあの時代のことはあまりはっきりと覚えていないのです。『サンデー』(週刊少年サンデー)に追い上げられていた、というのも、たしかに当時の西村編集長から“しっかりしろ”“がんばらなきゃダメだ”みたいなことを言われていたようには思うのですけど、とくに編集方針が変わるようなこともなく、われわれ編集者は自分が担当している目の前の作品を追いかけるのに精一杯だったんですよ。ぼくの場合は、配属されてすぐに先輩から宮下あきら先生の『激!! 極虎一家』(1980〜82)を引き継いで、はやく自分が育てた新人を、という時です。『ジャンプ』(週刊少年ジャンプ)編集部は自分の手で作家を育ててナンボみたいな空気がありましたから……。そうは言っても、編集長はいろいろ作戦を考えていたはずです。危機感かどうかはわかりませんけど、それまでずっと一番でしたから、一番を守らないといけないわけですから。それも、83年に武論尊先生と原哲夫先生の『北斗の拳』(1983〜88)がスタートして、編集部内の空気がガラリと変わったのは間違いないです。それ以前から、高橋陽一先生の『キャプテン翼』(1980〜88)もあったし、鳥山明先生の『Dr.スランプ』(1980〜84)もあったしで、もちろん秋本治先生の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(1976〜2016)もあったわけで、誌面のバランスもよかったんですけど、『北斗の拳』のヒットで、さらに活気が出ました。ジャンプはこの路線で行くみたいなものがはっきりしたんです。『北斗の拳』の翌週には、ぼくが担当した徳弘正也先生の初連載となる『シェイプアップ乱』(1983〜86)も始まりました。編集長や副編集長がかなり手応えを感じていたのはもちろん、ぼくも仕事に面白みを覚えた時期だったんです」
体育会のノリで編集
84年には、鳥山明の『DRAGON BALL』(1984〜95)の連載が始まった。「少年サンデー」のお株を奪ったようなまつもと泉のラブコメ『きまぐれオレンジ☆ロード』(1984〜87)などもスタートして、通常号で390万部。年末最終号ではついに400万部の大台に乗った。ここから10年間続く伝説の快進撃がスタートしたわけだ。
「部数が伸びていく気持ちよさみたいなものはありました。ほかの雑誌は気にしなくていいんじゃないか、といった雰囲気もあったんじゃないでしょうか。前年比で50万部、70万部と伸びた年もあったんです。当時の編集部は個性的な人物がたくさんいて、それぞれに自分の好きなものや売れそうなものをせっせとつくっていました。マンガ家さんも個性的な人が多くて、みんなで競争しながら雑誌をつくっていたんです。ぼく自身、『DRAGON BALL』も『北斗の拳』もちゃんと読んでないんです。先輩だってライバルですから、“堀江のつくったもん読んでもしょうがないだろ”“鳥嶋は楽して名古屋から原稿送らせてよ”みたいな調子……。大人げないというか、男ばかりの編集部ですから体育会のノリです。年に一度、編集部全員で社員旅行をするんですけど、無礼講が行き過ぎてガラスの灰皿が飛んできたりしてね(笑)。みんな、自分の担当以外の作品は好きじゃなかったのでは。中には読んで研究した人もいるんでしょうけど、ぼくが『DRAGON BALL』をちゃんと読んだのは、完全版(2002年)を出すときに校了紙で読んで“これおもしろいんだ!”と。ほぼ20年後ですよ。あの時代のぼくらが考えていたのは“どうやってヒット作を出すか”“どうやってやつを出し抜くか”だけでした」
雑多な編集者が好き勝手に
私は、マンガ好きが集まってそれぞれに競い合いながら編集しているイメージを思い浮かべていたが、茨木の次の言葉に驚かされることになる。
「いろんなタイプの人がいましたけど、いわゆる“オタク”はいませんでしたね。後輩で、のちに編集長にもなった佐々木尚が入ってきたとき“アニメが好きです”って自己紹介したんで“とうとう『ジャンプ』にもアニメ好きが入ってきたのか”とみんなで驚いたくらい。85年か86年だったはずです。あの頃から希望を聞いて配属するようになったんじゃないかな。そもそも、西村さんもその後の後藤さんも、歴代編集長がアニメを評価していなかったんです。だから、アニメ化の話がきても編集長ではなく主に鳥嶋さんが窓口になっていました。その鳥嶋さんだってもともと文芸志望で、SF系の出版社を目指していた人だし……。堀江さんも編集部に来るまではマンガなんてまったく興味がなかったんです。ぼくが入った頃に編集長だった西村さんはマンガが好きとは思えないし、後藤さんも理科系の人でマンガなんて読んでなかったでしょう。ぼくだって子どもの時には『サンデー』を読んで、テレビで『少年忍者 風のフジ丸』(1964-65)や『未来から来た少年 スーパージェッター』(1965-66)などを見ていましたけど、志望は『週刊プレイボーイ』でした。いろんな人がいて、ぐちゃぐちゃに好き放題やっていたのがよかったんじゃないですかね」
マンガやアニメ、特撮などが好きな人間が編集に携わると、どうしてもマニアックな方向に向かってしまいがちだ。コアなファンには人気が出るかもしれないが、子どもから大人まで広く受け入れられるものにはならない。マンガとアニメ以外にさまざまな興味を持った編集者がいたことが、当時のジャンプ躍進の原動力だったのかもしれない。
ゲーム情報のページなどにも人気が
80年代後半の「週刊少年ジャンプ」の人気を支えたのは、人気マンガだけではなかった。巻頭カラーのテレビゲームの情報ページや巻末の投稿コーナーが、とくに小中学生の男子から支持を集めたのだ。
任天堂のファミリーコンピュータの発売は1983年7月。85年にゲームソフト『スーパーマリオブラザーズ』が発売されると人気に火が付いた。本体は売り切れ店が続出。新しいソフトの発売日には前日から行列ができるなど社会現象にまでなった。
強力なライバルの登場に対して、少年マンガ誌は無視、または静観という態度だった。ところが、「週刊少年ジャンプ」だけは積極的に情報を流したのだ。新しいゲームソフトや攻略法の情報に飢えていた子どもたちはジャンプに殺到した。
「どちらも鳥嶋さんの仕事です。鳥嶋さんはゲームが好きだったんです。それでファミリーコンピュータの人気が出てきた時に、巻頭カラーにゲーム情報のページをつくろうと計画したんです。記事の編集プロダクションも鳥嶋さんが見つけてきて……。記事ページを外注したのもあのときが初めてだと思います。読者からの投稿はがきを紹介する『ジャンプ放送局』はゲームライターのさくまさんが放送局長でしたね」
マンガの傍らにさらに新企画を立てたというのがすごい。
「当時の鳥嶋さんの担当は鳥山明先生と桂正和先生で、おふたりともスケジュールがきっちりしたマンガ家さんだったんです。もちろん、鳥嶋さんがそのように指導したのでしょうが。だから、鳥嶋さんはもともとゲーム好きだったうえに、少し余力があったんだと思います。普通なら、マンガ家さんの仕事場で泊まり込みで原稿を待って、出来上がったものを大急ぎでネームの写植を頼んで印刷に入れて、というスケジュールだから余力はないはずなんです。ぼくがゆでたまご先生を担当したときは、ストーリー担当の嶋田隆司先生が仕事をしている時間は、マンガ担当の中井義則先生は休んで、というふうに時間を使い分けていたもんですから、編集者は休む時間がどこにあるの、って……。ゲーム記事ではうちが他誌より先んじていたので、その後、任天堂さんもゲームメーカーさんも優先的に情報をくれていました。かなり感謝してもらっていたんでしょうね。そういうページを企画することに対しては、編集長は何も言いませんよ。マンガのほうをしっかりやっているのなら、あとは何をやってもいいという感じでした」
こうして、「週刊少年ジャンプ」は、1988年の年末最終号では500万部の大台に乗せた。さらに、通常号でも500万部体制がはじまったのだ。
茨木政彦
1957年生まれ。1982年「週刊少年ジャンプ」編集部に配属。同誌8代目編集長、「ジャンプスクエア」創刊編集長などを経て、現在、集英社常務取締役と小学館集英社プロダクション取締役を兼務。
※発行部数は編集部調べ
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