昨今、マンガ作品の発表の場は雑誌だけに留まらない。マンガアプリをはじめとしたデジタルマンガの発展がめざましく、マンガ単行本においては、電子書籍と紙の書籍の売り上げが逆転したとのニュースも。そんなデジタルマンガが身近になってきたいま、デジタルと紙の関係について、2つの媒体を行き来する内外のマンガを取り上げる。
『3秒』表紙
紙とデジタルを越境する―マルク=アントワーヌ・マチュー『3秒』の衝撃
これまで筆者が翻訳してきたバンド・デシネ(フランス語圏のマンガ)のなかで特にユニークな作品のひとつにマルク=アントワーヌ・マチュー『3秒』(拙訳、河出書房新社、2012年)がある。
作中には新聞記事など断片的なものを除いて一切テキストがなく、状況があまり判然としないのだが、どうやらこの物語の世界ではサッカーの八百長が横行しているらしい。おそらくそのことと関連して、レナート・ナッチという往年の名選手の命が何者かに狙われている模様である。実際にスナイパーが遠隔から銃撃し、警護に当たっていた刑事らしき人物が応戦する。その間わずか3秒。本書が描くのはそのわずか3秒間の出来事である。
たった3秒の事件を描いた物語という時点でかなりユニークだが、さらにユニークなのが物語の語り方。この物語はズームと反射という2つの法則だけで成り立っているのだ。
物語の冒頭、カメラが暗い室内の奥のほうから複数の人物越しに窓にズームし、向かいの建物の窓辺にいる男性をとらえる。カメラはさらにズームを続け、彼の瞳に寄る。瞳の中には彼が手にしている携帯電話の画面が写っていて、今度はその画面が大写しになる。携帯電話の画面の上部には携帯電話用カメラのレンズがあり、そこにズームすると男性とその背後で銃を構える人物が写っていて……といった具合である。基本的にはズームの運動しかないのだが、人間の瞳や携帯電話用カメラのレンズといった何かを反射する鏡面にぶつかると別のアングルが開け、さまざまな情報が少しずつ明らかになっていくという仕組みになっている。作中随所に反射(やそこから連想される虚像=シミュラークル)をめぐる小ネタも散りばめられていて、ズームと反射と知的遊戯の連続に眩暈を覚える。
本書は2011年の9月にフランスで出版され、その後わりとすぐ、2012年の2月に日本でも出版された。もちろんどちらも紙の本として出版されたのだが、もともと作者のマルク=アントワーヌ・マチューは、この作品をデジタルコンテンツとして構想していた。紙の書籍をそのまま電子化したものではない。内容的には同じでも、表現としてはまったくの別物である。紙で出版された『3秒』には、セリフはないがコマ割りはあって、バンド・デシネの体裁をしている。一方、デジタル版は一見アニメーションに近い。画面が固定されていて、コマ割りもない。紙版の各コマの絵が次々に映し出されていき、読者はそれを眺めるだけ。ただし、速度を調整する機能があって、そこで読者は多少なりとも能動的に作品に働きかけることができる。最終的にそれは商品にこそならなかったのだが、紙版の購入特典としてウェブ上で公開された(註1)。
あいにく『3秒』デジタル版はYouTubeなどの動画共有サービスでは公式の形で公開されてはいないのだが、フランス語版版元のデルクール社が用意した『3秒』の宣伝用動画があり、そのなかに一部が組み込まれている。どんなものなのか参考までにぜひご覧いただきたい。動画の10秒過ぎあたりから、早送りのように動く映像が始まる。それが『3秒』デジタル版である。この動画のなかではごく一部しか見ることができないが、購入特典のフルバージョンでは紙版の内容が最初から最後までこの調子で展開していく。作画やコンセプトは紙版と同じだが、画面の奥へ奥へと突き進んでいくような独特なズームは、デジタル版でなければ味わえない新体験である。
作者のマルク=アントワーヌ・マチューは、「空間演出家」という肩書で展覧会のデザインなども手がける異能のバンド・デシネ作家。日本では本書以外に、この連載の「第7回 マンガと美術」でも触れた『レヴォリュ美術館の地下 ある専門家の日記より』(大西愛子訳、小学館集英社プロダクション、2011年)と『神様降臨』(古永真一訳、河出書房新社、2013年)が翻訳されている。邦訳はないが、代表作の『夢の囚われ人ジュリウス・コランタン・アクファク(Julius Corentin Acquefacques, prisonnier des rêves)』(註2)というシリーズ作品では、主人公が夢のなかで奇妙な冒険に巻き込まれるのを口実に、穴の開いたコマや仕掛け絵本のような工作、立体3D眼鏡など、巻ごとのテーマに沿った凝ったギミックを盛り込み、最新作『3つの夢想(3 Rêveries)』(註3)では、箱の中に何mもある長い巻物と折り本、内容的に連続性の感じられる一連のカードの3点を収めて販売するなど、彼は常にマンガとは何かと問いかける作品を世に送り出している。
絵と文とコマを備えたコンテンツをマンガと呼ぶのだとすれば、マルク=アントワーヌ・マチュー『3秒』デジタル版はマンガではないという意見もあることだろう。だが、彼のこうした業績に照らし合わせてみると、『3秒』とは、紙とデジタルを越境しながら、マンガとは何かと問いかけ、その可能性をさらに押し広げようとしている作品なのだと言いたい誘惑に駆られる。
デジタルマンガについて知るための2冊
『3秒』デジタル版が商品ではなく、それ単体で利益が上がるようになってはいないことは改めて強調しておこう。フランスにはバンド・デシネやマンガ、コミックスを専門に扱う「イズネオ(izneo)」という電子書籍ストアがあって、2010年のサービス開始から現在に至るまで着実に成長してきている印象があるのだが、そこでは『3秒』は扱われてはいない。もちろんすべてのバンド・デシネが電子化されそこで販売されているわけではないのだが、同じ版元から出版されているマチューの別の作品のなかには販売されているものもある。従来のバンド・デシネから大きく逸脱する『3秒』デジタル版はともかくとして、紙版を電子書籍化することはそんなに難しいことではないはずだ。もしかしたら作者の側に、『3秒』については紙とデジタルでワンセットという強いこだわりがあるのかもしれない。
デジタルマンガには『3秒』のようにデジタル固有の表現を追求し、従来の紙のマンガのあり方を問い直すような野心にあふれつつ、商品とはなっていない作品がある一方で、紙で販売されているマンガと同じように、何らかの形で販売され利益を上げている商品もある。
今や、そういった商品としてのデジタルマンガが、マンガ全体のなかで非常に大きな比重を占めている。デジタルマンガの市場はフランスではまだ決して大きくなく、今後の成長が期待されている段階だが、日本ではここ数年の間に大躍進を遂げた。2018年にはついに電子書籍の単行本の売り上げが紙の単行本の売り上げを上回り、大きく報道された(註4)。体感的にもデジタルマンガは年々身近になっている印象がある。
日本のデジタルマンガについては、幸い、大坪ケムタ『少年ジャンプが1000円になる日 出版不況とWeb漫画の台頭』(コアマガジン、2018年)という手頃な概説書がある。特に第2章から第5章にかけて、デジタルマンガの誕生から現在のさまざまなマンガアプリの群雄割拠に至る歴史が紹介されている。ほしよりこ『きょうの猫村さん』(2003年から@NetHomeで連載開始)、『キン肉マンⅡ世』(1997年から「週刊プレイボーイ」で断続的な掲載を経たのち連載開始、2011年5月からは「週プレNEWS」で連載)、ONE作、村田雄介画『ワンパンマン』(2012年6月から「となりのヤングジャンプ」で連載開始)、夜宵草『ReLIFE』(2013年10月からcomicoで連載開始)など、日本のデジタルマンガの歴史を彩った具体的なタイトルが次々と紹介されていく一方で(案外多くの話題作がデジタル発で驚かされる)、インターネット環境の発展やインターネットコミュニティの成熟がマンガにどのような変化をもたらしたかが詳しく解説されていく。
日本のデジタルマンガについて考えるうえでもう一冊強くオススメしたいのが、飯田一史『マンガ雑誌は死んだ。で、どうなるの? マンガアプリ以降のマンガビジネス大転換時代』(星海社、2018年)である。『少年ジャンプが1000円になる日―出版不況とWeb漫画の台頭』でも一章が割かれていたマンガアプリに特に焦点が当てられていて、さまざまなアプリやデジタルマンガのサービスが詳しく分析されている。個人的に特に印象的だったのは、主にツイッターでマンガを提供する星海社のサービス「ツイ4」と、韓国系のウェブトゥーンおよびその日本での展開である。
マンガというと、筆者は未だについつい紙の雑誌連載がある程度まとまって単行本になるという連想をしてしまいがちなのだが、この2冊の本からうかがえるのは、そんな単純なモデルでマンガをとらえられる時代はもうとっくに終わっているということである。連載媒体はデジタルの雑誌であることもあるし、雑誌ですらなくてウェブサイトやブログ、ツイッターやフェイスブックといったSNS、さらにはアプリということもある。紙の単行本が重要な収益源のひとつであることは未だに変わっていないが、ウェブトゥーンの広告などに見られるように、マネタイズのあり方も大きく変わってきているのである。
『マンガ雑誌は死んだ。で、どうなるの?―マンガアプリ以降のマンガビジネス大転換時代』表紙(左)、『少年ジャンプが1000円になる日―出版不況とWeb漫画の台頭』表紙(右)
デジタルマンガで増える邦訳海外マンガ
市場が成長していくにつれ、日本では海外マンガの邦訳がデジタルマンガとして配信されるケースも増えてきている。
特にめざましいのは韓国系のアプリやウェブサイトである。LINEマンガやcomico、ピッコマ、レジンコミックス、TOPTOONと、韓国系のウェブトゥーンのプラットフォームが相次いで日本に上陸していて、そこでは多くの韓国マンガを日本語で読むことができる。なかには紙の単行本として出版されているものもあり、Kindleやその他の電子書籍ストアで配信されているものもある。その辺りのことは、ユン・テホ『未生 ミセン』(全9巻、古川綾子、金承福訳、講談社、2016年)の紹介がてら別の場所でも書いたので、興味があればぜひそちらもお読みいただきたい。
韓国系のアプリやサイトで興味深いのは、しばしば作者および作品の国籍がわからないようになっている点だろう。海外マンガ(この場合は特に韓国マンガであるわけだが)とわかると日本では売れないという判断があるのか、あるいは現代というボーダレスの時代において作者の国籍などもはや意味を持たないというメッセージなのか。こうした問題に興味がある向きには、ぜひこの連載の「第4回 国境なきマンガ」も併せて読んでいただきたい。
韓国系以外で目立つのは、Comic Catapultの邦訳作品だろうか。Comic Catapultは2015年にデジタルカタパルトが立ち上げたレーベルで、インドネシア、マレーシア、台湾、フランスなどさまざまな国のマンガを30点近く邦訳し、さまざまなストアで電子配信している。もともと海外では紙のマンガとして出版されていたものが、デジタルマンガとして配信されているケースが多いのが特徴である。デジタルの単行本として販売されていることが多いが、韋宗成『冥戦録』のように連載の形を取っているものもある。Comic Catapultの作品については、やはり別のところでHambuck『龍泉侠と謎霧人―台湾布袋劇伝説』(クニクロ訳、デジタルカタパルト、2016年)という台湾のマンガについて書いているので、よかったらそちらも読んでいただきたい。
ほかにも例えば、アメリカの電子書籍ストア「コミクソロジー(ComiXology)」で連載中のサム・ハンフリーズ作、アルティ・ファーマンシア画『ゴリアテ・ガールズ』が日本のKindleで同時出版されていたり、イタリア発のマンガ、アンジェラ・ヴィアネッロ『AEON―アエオン―』がebookjapanのアプリで連載されていたり(第7話で第1部完)と、このような翻訳の例は増える一方である。筆者自身が翻訳しているバスティアン・ヴィヴェス『年上のひと』(拙訳、リイド社、2019年)というバンド・デシネは、紙のマンガとしても出版されているが、全体の4分の3に当たる部分を「トーチweb」で無料で読むことができる。
また、海外で出版された作品が邦訳されるだけでなく、海外の作家が作家単独で、あるいは出版社や配信会社と組んでオリジナルのデジタルマンガを配信するケースも増えてきている。直近の例を挙げれば、先ほど触れたツイ4で2019年7月から連載スタートしたコットン バレント『CreepyCat 猫と私の奇妙な生活』は、タイ人イラストレーターによる作品で、2019年12月には単行本も発売予定とのこと。
海外で出版された作品の邦訳にしろ、海外作家のオリジナル作品にしろ、今後ますます増えていくはずで、デジタルマンガではさらなる国際化が期待される。
インスタグラム連載のバンド・デシネ
冒頭で紹介したマルク=アントワーヌ・マチュー『3秒』は2011年に出版された作品だが、それ以降、市場の成熟はまだまだとはいえ、フランスでもさまざまなデジタルマンガの試みが相次いでいる。2018年にはジュリアン・ボードリー『コマ・ピクセル―フランスにおけるデジタルBDの歴史(Cases-pixels: Une histoire de la BD numérique en France)』(註5)という研究書も出版されるなど、それらの試みをまとめようという動きも出てきた。ネット上にはカジュアルな記事もいろいろあるので、フランスのデジタルマンガに興味があってフランス語が読めるのであれば、ぜひ読んでみることをおすすめしたい。例えば、「デジタルBDの4つのフォーマット(4 formats de BD digitale)」と題された記事は、フランスにおける近年のデジタルマンガを、バンド・デシネとアニメのハイブリッド型、縦スクロール型、横スクロール型、コマ単位のスライドショー型の4つのフォーマットに分けて紹介していて興味深い。
その記事のなかでスライドショー型の例として紹介されている未邦訳のバンド・デシネ、トマ・カデーヌ、ジョゼフ・サフィディーヌ、カミーユ・デュヴェルロワ作、エルワン・シュルクフ画『夏(Été)』を最後に紹介しよう。本作は、フランスのテレビ局アルテ(Arte)とシナリオ制作会社のビガー・ザン・フィクション(Bigger Than Fiction)の制作のもと、2017年6月末からインスタグラムで連載され、さらに紙版もデルクール社から出版された(註6)、なかなか大がかりなプロジェクトである。
『夏(Été)』表紙
物語の主人公は29歳の女性オリヴィアと28歳の男性アベル。ふたりは付き合って1年間でそろそろ結婚を考えている。だが、あとで後悔しないように、それぞれ独身のうちにこれだけはやっておきたいというバケツ・リストをつくり、夏の2カ月間お互いに一切連絡を取り合うのをやめて、最終的な一歩を踏み出す前にそのリストを実行することにする。こうしてふたりの特別な夏が始まる。
物語が夏の2カ月間の出来事であるのに合わせて、連載は2017年6月末から8月末の2カ月間にわたって毎日行われた。1日の連載単位は1コマ×9枚の画像。どの投稿にもBGMがついていて、ちょっとしたアニメーションの効果が加えられているところもある。このようなラブストーリーは伝統的な紙のバンド・デシネにはあまり多くなく、2010年あたりから少しずつ増えてきた印象だが、インスタグラムはこのような物語を連載するには格好のプラットフォームと言えるだろう。作品のトレーラー代わりに最初の一連の投稿が2017年6月7日になされ、その後、本編は2017年6月27日から始まった。アカウントの投稿をそこまで遡れば、今でも最初から物語を読むことができるので、興味がある方はご覧になってみてはいかがだろう。
フォロワーからの支持も高かったのか、2017年の第1シーズンに続いて、2018年の夏には第2シーズンが、2018年の冬にミニシリーズが、さらに2019年夏に第3シーズンが連載され、『夏』は最終的に長期連載の大がかりな作品となった。
おそらくは『夏』のプロジェクトが高評価を得たのだろう。アルテとビガー・ザン・フィクションは、2019年3月1日から30日にかけて、今度はインスタグラムのアルテ・コンサートのアカウントで、ジュゼッペ・ヴェルディの古典オペラ『椿姫』をレオン・マレの手で大胆にバンド・デシネ化した『インスタ椿姫(Instraviata)』を連載している。作画は90年代の日本マンガにインスピレーションを得ているのだとか。なお、こちらは今のところ紙では出版されていない模様である。
これらに次ぐ新たなプロジェクトがインスタグラム上で生まれるのか、はたまた別の場所で新たなフランス産デジタルマンガが生まれるのか、要注目である。
(脚注)
*1
この特典は日本語版にもついている。『3秒』日本語版にサイトのURLとID、パスワードが掲載されていて、それでデジタル版にアクセスできるという仕組みになっている。
*2
Marc-Antoine Mathieu, Julius Corentin Acquefacques, prisonnier des rêves, Delcourt, 1990-. 既刊6巻。
*3
Marc-Antoine Mathieu, 3 Rêveries, Delcourt, 2018
*4
産経ニュース「漫画単行本、電子書籍と紙の売り上げ逆転 市場規模はピーク時の4分の3に」
https://www.sankei.com/entertainments/news/180226/ent1802260015-n1.html
*5
Julien Baudry, Cases-pixels: Une histoire de la BD numérique en France, PU François Rabelais, 2018
なお、著者のジュリアン・ボードリーは、2012年にすでに『ヌヴィエムアール2.0(neuvième art 2.0.)』というオンラインマガジンで「histoire de la bande dessinée numérique française(フランスのデジタル・バンド・デシネの歴史)」という連載を担当していて、それが今回の本のベースになっている模様である。
http://neuviemeart.citebd.org/spip.php?rubrique72
*6
Thomas Cadène, Joseph Safieddine, Camille Duvelleroy et Erwann Surcouf, Été, Delcourt, 2017
※URLは2019年10月28日にリンクを確認済み
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