マンガ雑誌が熱かった時代の現場の様子を当時の編集者に聞くシリーズ。第9回と10回は、「青年コミック誌の先駆け」と言われる『Weekly漫画アクション』の黄金時代を双葉社に1985年に入社して、現在は同社取締役編集局長の島野浩二に聞いた。

島野浩二

青年コミック誌のパイオニア

双葉社の「漫画アクション(以下、アクション)」の創刊は1967年7月。創刊当時は週刊だったが、2003年に一旦休刊後、月2回刊でリニューアル復刊して現在に至っている。
創刊当時は、それまでの大人向けマンガ週刊誌とも少年週刊誌とも違う、若者向けをコンセプトとした新カテゴリーである青年コミック誌のさきがけとして人気を集め、モンキー・パンチの『ルパン三世』(1967~69)や永島慎二の『若者たち』(1968~70)、小池一夫・原作、小島剛夕・作画の『子連れ狼』(1970~76)、上村一夫の『同棲時代』(1972~73)などで劇画ブームを牽引。その後も、長谷川法世の『博多っ子純情』(1976~83)、どおくまんの『嗚呼!! 花の応援団』(1975~79)、はるき悦巳の『じゃりん子チエ』(1978~97)などをヒットさせた人気雑誌である。70年代には大友克洋を発掘したことでも知られる。
しかし、創刊10年を越えたあたりから高校生、大学生がメインだった読者層の高年齢化が目立ちはじめる。彼らが20代後半から30代の中堅サラリーマンになってしまったのだ。同じような現象は他の青年誌にも起きていて、少年誌と青年誌の中間層を狙ってヤング誌が登場する。1979年5月に集英社から「週刊ヤングジャンプ」が創刊されたのを皮切りに、1980年6月に講談社から「週刊ヤングマガジン」、同年10月に小学館から「ビッグコミックスピリッツ」が相次いで創刊されると、「アクション」は若い読者をそちらに奪われるかたちになった。

青年誌からヤング誌への過渡期

現在、双葉社の取締役出版局長を務める島野浩二が「Weekly漫画アクション」編集部に新卒として配属されたのは1985年。すぐ上の先輩には、「劇団✩新感線」の座付き作家で作家としても活躍する中島かずきがいた。

「学生時代は映画サークルだったんです。ところが、まわりには才能がある人がたくさんいて、自分には彼らのような才能がないな、と気づかされました。むしろクリエイターを応援する仕事が向いている、と考えるようになって、編集者を志望したんです。各社受けて、双葉社と縁があったというか……。ただ、『アクション』は大好きで、中学生の後半からずっと読んでいました。大学生だった姉が『アクション』のファンで、僕も自然に読むようになってたんです。『嗚呼!! 花の応援団』をゲラゲラ笑って読んでいましたね。高校に入ると自分で買うようになって、『週刊少年ジャンプ』や『週刊少年サンデー』にはない文学性を感じたのも確かです。呉智英さんや関川夏央さんが匿名で執筆していた時事コラム『アクション・ジャーナル』の連載を読んで“何でこんなものがマンガ雑誌に載っているんだ”と驚いたりもしました。一方で、あの時代はヌードグラビアもあって雑誌全体は少し大人向きでしたから、背伸びをする感覚もあったんだと思います」

「Weekly漫画アクション」1986年2月5日号、p.132

当時の目次をざっと見てみると、『じゃりん子チエ』のほか、山本おさむの『ぼくたちの疾走』(1981~85)、植田まさしの『ほんにゃらゴッコ かりあげクン』(1980~)、西岸良平の『鎌倉ものがたり』(1984~)、さらに新連載ではジョージ秋山の『恋子の毎日』(1985~1992)、狩撫麻礼・原作、たなか亜希夫・作画の『ア・ホーマンス』(1986)、江口寿史の『エリカの星』(1985~91)など魅力的な作品が並んでいる。

「当時の編集長は、『アクション』を青年誌からヤング誌に路線変更しようと考えていたんです。僕や中島が編集部に配属されたのは、こいつらに新しいことをやらせよう、という含みもあったのでしょう。ちょうどバブル景気がスタートする年で、時代の空気みたいなものもあったと思います。1987年にはグラビア・ミスコンの『ミスアクション』も始まって、海外撮影もやっていたから予算もあったんですね。ところが、僕自身は昔からの『アクション』が好きだったので、編集長を捕まえて“『アクション』がヤング誌を狙うのはおかしいんじゃないですか?”と青い意見を戦わせたのを覚えています。自分の嗜好みたいなものを入れて連載を立ち上げると、結局、新しいものになってしまったのですけどね。編集長の改革路線が新しい読者につながってきたのは86年から87年でしょうか。大学のOB会に行っても“アクション読んでるよ”“アクションおもしろいね”と言ってくれる人が増えていましたから」

『かってにシロクマ』がブレイク

1985年には高橋三千綱・原作、かざま鋭二・作画の『Dr.タイフーン』(〜1991)や国友やすゆきの『ジャンク・ボーイ』(~1989)、1986年には狩撫麻礼・原作、たなか亜希夫・作画の『迷走王 ボーダー』(~1989)など、続々とヒット作が登場。1987年には関川夏央・原作、谷口ジロー・作画の『「坊ちゃん」の時代』(~1996)の連載も始まる。まさに「アクション」快進撃の時代だった。そんななかで若手編集者・島野が手がけた相原コージの新連載『かってにシロクマ』(1986~89)が大ブレイクする。

「素晴らしい雑誌でしたね。三世代の編集者がうまく機能していたんです。15年くらい上の先輩が『恋子の毎日』を担当して、10年先輩が『迷走王 ボーダー』や『「坊ちゃん」の時代』で、若手では中島かずきが『ジャンク・ボーイ』、僕が『かってにシロクマ』と。おもしろいですよね。相原さんを初めて担当したのは『文化人類ぎゃぐ』(1985〜86)という月に一度の連載でした。相原さんは持ち込み作品でデビューして、『ぎゃぐまげどん』(「アクションヒーロー」1984〜85)という作品を経て『文化人類ぎゃぐ』の連載につながっています。その連載中にも“次は動物を描きたい”とずっと言ってたんです。『かってにシロクマ』というタイトルも相原さんのものです。ただ、連載が始まって10回くらいはずっと読者アンケートの下の方だったんです。僕も相原さんも落ち込んでしまうわけです。相原さんは寡黙な人なのではっきり言うわけではないけど、一緒に仕事しているんだからわかります。ただ、相原さんは編集者がああしよう、こうしようと攻めていくと、よけいに悩んでしまうので、こちらは“おもしろいから順位なんていいんですよ”なんてね……。ところが、女性のファンがつきだしたんですね。当時の編集長が、キャバクラの女の子達が“アクションおもしろいです。『かってにシロクマ』”とか言うようになったと……。その頃から、月に1回は表紙&巻頭カラーにして編集部としても押し出すようになったんです。あれよあれよという間にヒットしました。絵が洗練されていったのも10回目くらいだったように思います。1989年に連載を終了したのは、相原さんと僕のあいだで、長くても3年と決めていたからです。長くすればいくらでも長くできるんですけど、相原さんはそれは嫌だと。最後のシーンも初めから決まっていました。単行本が売れてましたから会社としては困るんですけど、そこで作家に無理をさせないという余裕もあったんだと思います。編集長には後になってかなり怒られましたけどね。“勝手に決めんじゃねえっ”って。雑誌が儲かっていた時代だから許されたのです。今のように単行本の売り上げで雑誌の赤字を埋める時代になると、ちょっと難しいでしょうね」

「マンガ雑誌黄金時代」とは、マンガ雑誌本体の売り上げが出版社の屋台骨であった時代、と言い換えることができるのかもしれない。

「Weekly漫画アクション」1988年3月8日号表紙

岡崎京子を連載に起用

さて、80年代の後半、若手編集者・島野が担当したのは『かってにシロクマ』だけではなかった。それまでの青年誌にもヤング誌にもなかった強烈な個性が登場する。1980年代から90年代に、「新しい時代の少女マンガ家」として、マンガだけでなく、サブカルチャー界全体から注目された岡崎京子である。

「岡崎京子さんには『セカンド・バージン』(1985~86)の連載をお願いしました。当時、岡崎さんは、ミニコミの『東京おとなクラブ』や美少女誌の『漫画ブリッコ』に載った作品がようやく注目されはじめた頃です。僕は、『アクション』のほかにも『漫画ブリッコ』などを読んでいたんです。大塚英志さんと小形克宏さんが編集に入ってエロ劇画誌から美少女誌に転換したばかりで、サブカルの匂いがプンプンして、そこが好きだったんです。岡崎さんはまだメジャーデビュー前でしたけど、非常にいいものがあるのでお願いして……。岡崎さんにとって初めての週刊連載だったのでかなりのプレッシャーはあったみたいです。こちらから“サザエさんみたいなホームドラマを”と提案したら、母親と高校生の娘のマンガが出来上がってきてびっくりしました。『セカンド・バージン』というタイトルは中島に案をもらって僕が決めました。それまでの『アクション』と違うという点では、あの作品が一番強烈だったかもしれませんね。編集長は、何でもアリだったみたいです。少なくとも若いやつはなんでも持って来いという度量があったんです。読者アンケートは下位でしたけど、先輩編集者が“これおもしろいよ”と褒めてくれたのがうれしかったですね。ほかにも、当時、僕が好きで、今でも最高に才能があっておもしろいものを描けると思っているよしもとよしともさんにもいろいろ描いてもらいました。『月刊漫画ガロ』で描いていた内田春菊さんにも登場してもらいました。新しいマンガを理解する感性が編集部内にあったからできたんですね。1986年には増刊で『COMIC SHOP HAMBURGER』という雑誌も出しました。女性作家さん中心に集めた青年誌としては画期的な雑誌でした。今改めてみるとすごい作家さんばかりですね」

「Weekly漫画アクション」1986年6月14日増刊号「COMIC SHOP HAMBURGER」表紙
「Weekly漫画アクション」1986年6月14日増刊号「COMIC SHOP HAMBURGER」目次

当時読者だった一人として思い出しても、「Weekly漫画アクション」は他誌とは違うサムシングエルスがあった。青年誌でもない、ヤング誌でもない、メジャーでもマイナーでもない、いずれのカテゴリーからもはみ出す「アクション」というカテゴリーをつくっていたような気がする。その「アクション」から「クレヨンしんちゃん」という国民的スターが生まれた顛末は、次回に譲りたい。


島野浩二
1961年、栃木県鹿沼市生まれ。慶應義塾大学を卒業後、1985年に双葉社に入社。「Weekly漫画アクション」編集部に配属。編集長などを経て現在、取締役編集局長として同社のマンガ出版全般に関わる。

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