「広告マンガ」を主題に、コマ割りや吹き出しといった要素の組み合わせであるマンガが、どのようなかたちで広告に落とし込まれてきたのかを探っていく。前編では、雑誌やポスター、ダイレクトメールなどの事例から、絵と言葉による説明能力の高さが重宝されていると分析した。後編では、より「見せる」ことを意識した広告マンガの実践を紹介していく。

「福岡競艇」ポスター(I:久保誠二郎、CD+AD:春高壽人)
「イラストレーション」112号、玄光社、1998年、102ページ

「見せる」広告マンガの実践例

前回はマンガの特徴がそのまま保持されている広告を、広告マンガとしてカテゴライズし、雑誌やポスター、ダイレクトメール(DM)などに見られる個別ケースを検討してきた。その結果、マンガはその説明能力の高さが広告として重宝される傾向にあることがわかった。今回はそのような「読ませる」広告マンガの表現上の制約を確認したうえで、「見せる」ことも意識した広告マンガの実践を紹介していきたい。

広告マンガはその目的が商品などのアピールに設定されるに伴って、表現の幅が狭められているようにも考えられる。例えば前回取り上げた日本航空の「わ・イキイキ」プランがそうであったように、絵を依頼された人間がマンガを広告のために描くにあたって、クライアントから話やセリフを設定されることはひとつの制約である。また、説明が重視されるということは、視覚的に劇的な要素よりも、理解のしやすい視点の切り替えや、落ち着いたコマ割りが求められていくことにもなるだろう。

しかし、このように「読ませる」ことばかりではなく、ダイナミックなコマ割りや、集中線をはじめとしたさまざまなエフェクト表現など、視覚的にも楽しませることができるのがマンガの特徴でもあるはずだ。その点では進研ゼミの取り組みに代表されるような、DMなどの形で流通する地方自治体、宗教団体、企業が主導した(もはや通常のマンガとの差別化も場合によっては難しい)広告マンガは、大ゴマを活用するなど、ビジュアルでアピールすることに意識的であるとはいえるだろう。だがしかしこれらのカテゴリーも、やはりストーリー優位の「読ませる」ものであることには変わりはない。より物語に束縛されないかたちで制作された「見せる」広告マンガには、どのようなものが存在するのだろうか。

まず取り上げたいのは、1998年の「福岡競艇」のポスターである。イラストレーションを手がけた久保誠二郎は、キャラクターデザイナーとしても定評のある描き手だ。このポスターでは競艇選手がキャラクター化され、背景に流線が施されることでスピード感を表現し、そしてそれがコマによって割られている。吹き出しと言葉は存在していないが、マンガならではの表現によって成立している事例だといってもいいだろう。

次に触れたいのは、佐藤可士和が2003年にアートディレクションを行った「スカイパーフェクト・コミュニケーションズ」のポスターである。ロゴマークがキャラクターとして機能し、吹き出しと言葉によってリズムがつくられている。コマの枠線は明確には見当たらないものの、ドットの背景(これもスクリーントーンを連想させるマンガ的語彙だ)の隙間やズレ、色の使い分けによってコマ割りのような感覚を生じさせている。ロゴマークのキャラクターとしての活用も興味深い。マークは配置を変えて複数回登場することによって、あたかもマンガの主人公のようにさまざまな表情を見せている。

「スカイパーフェクト・コミュニケーションズ」ポスター(AD;佐藤可士和、CD:多田琢)
『ADC年鑑2003』美術出版社、2003年

こうした広告マンガの可能性は近年より探求され、「読ませる」ことと「見せる」ことの両立に成功したケースがしばしば見られるようになってきた。そのケーススタディとしてまず触れたいのは師岡とおるの仕事である。彼は関東エリアのJR、私鉄各線、警察などが共同で実施する「痴漢撲滅キャンペーン」のポスターを、広告マンガの形式で2013年~2018年の6年にわたって担当してきた。コマ割りや集中線などが効果的に活用され、マンガの形式を丁寧に踏襲した構成が光る事例である。

師岡の場合、特筆すべきなのは、徹底的にマンガを記号として解体し、再構築していることである。1960年代から1990年代までの各時代のマンガのテイストに絵柄を毎年変更し、劇画、ラブコメ、少女マンガとそれぞれのジャンルを横断しながら、特定のマンガ家ではなく「その時代を模倣したい」(註1)というモチベーションで取り組んでいる。絵柄だけではない。吹き出し内のタイポグラフィも、1970年代以降のマンガに定着した、仮名にアンチック体、漢字にゴシック体という「アンチゴチ」に似た組み合わせが選択されているように見えることからも、マンガを読む経験に限りなく近づけようという姿勢がうかがえるだろう。

特に2017年のポスターのコマ割りの巧みさは言及に値する。同年のポスターは通常ページ内を横に読み進めるマンガにあって、2コマ目以降、縦の運動を強調することによって、あたかも縦組みの文章を読むときのような視線誘導が計画されている。紙面を自由に分割し、メッセージを伝えるマンガのダイナミックな運動性が完全に広告へと移植されている事例である。

「痴漢撲滅キャンペーン」ポスター
東京都交通局ウェブサイト https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2017/sub_p_201705307426_h.html

「読ませる」ことと「見せる」ことの両立は、師岡の事例のほかにもさまざまな広告で試みられている。以下で紹介するケースは、どれもそのような志向性を持っているといえるだろう。例えば高橋由季がカヤヒロヤ(コニコ)のディレクションによって描き下ろした「パンタスティック‼ 2016 AUTUMN」のティザーチラシを見てみよう。シンプルな2コマの構成ながら、1コマ目の集中線や枠外にはみ出す描き文字とキャラクターが勢いを感じさせ、2コマ目のセリフに説得力を持たせている。最小限の手数ながら、マンガの技法を効果的に広告に応用した例だ。

「パンタスティック‼ 2016 AUTUMN」ティザーチラシ
高橋由季ウェブサイト https://takahashiyuki.com/work161001/

2013年にブラザーがプリンターPRIVIOのキャンペーンの一環で制作した『あしたのジョー』を起用したポスターもユニークな事例である。「これが、あしたの常識。」というコピーを比較的大きめにレイアウトし、広告としての機能は最低限担保しているが、コマとコマの連続が明示的ではない自由な平面の構成は、ある種の少女マンガとの形式的な共通性を感じさせる。

「ブラザー PRIVIO」ポスター(CD:尾崎敬久、AD:加藤寛之)
『コミックmixデザイン アニメ・マンガ・ゲーム・キャラクターを使った広告・キャンペーン特集』パイインターナショナル、2015年、84ページ

細馬宏通が大島弓子のマンガに対して「セリフの順序がどうなっているのか、そして誰がそのセリフを言っているのかが、通常のマンガほど自明ではない」(註2)と指摘しているように、マンガとはリニアな連続性ではない別の秩序によっても成立させることが可能なメディアであり、少女マンガでは多くの作家たちによって、その可能性が追求されてきた。それぞれの色彩の散らし方から推察するに、おそらくこの構成はマンガではなくデザイン的なコンポジションの原理によって選択されたものだと思われるが、PRIVIOのポスターは結果的に、マンガならではの散文性に近づくことで商品の魅力を柔軟に、かつ多面的に伝達しようと試みている。

住宅設備メーカー、ノーリツが同じく2013年に展開した自動浴槽洗浄「おそうじ浴槽」のポスター/雑誌広告では、花くまゆうさくと池田理代子がコラボレーションしている。両者の絵柄は異なる傾向のものであるにも関わらず、それらがコマに統御されることによって共存しているのもマンガならではの表現だ。

「ノーリツ おそうじ浴槽」ポスター/雑誌広告(CD+CW:川口修、AD:中元ゲン、I:池田理代子/花くまゆうさく)
『コミックmixデザイン アニメ・マンガ・ゲーム・キャラクターを使った広告・キャンペーン特集』パイインターナショナル、2015年、87ページ

ソフトバンクモバイルの2013年のウェブ広告「ホワイトジャックによろしく」も印象的な広告マンガである。これは、2012年に作者が全面的な二次使用を許諾したマンガ『ブラックジャックによろしく』(佐藤秀峰、2002〜2006年「モーニング」連載)のセリフを創作し直したものだ。原作のシリアスなムードを、吹き出し内のセリフをコピーに入れ替えることによってユーモラスなものに仕上げている。また、このケースについてはSNS普及以後のマンガの置かれた環境が影響していることも付け加えておきたい。なぜならSNS上においては「どこかしら印象的なマンガの一コマが、出典を明記されないままに世界中に拡散する」(註3)ことが日常的に起こっているからである。「ホワイトジャックによろしく」は、そのようなコピーや模倣、二次創作が活発なインターネット空間だからこそ成立した広告マンガだといえるだろう。

「ソフトバンクモバイル『ホワイトジャックによろしく』」ウェブページ(CD+CW+AE:武田陽佑)
『コミックmixデザイン アニメ・マンガ・ゲーム・キャラクターを使った広告・キャンペーン特集』パイインターナショナル、2015年、106ページ

日本における広告マンガの多様化

このように、これらの広告マンガは、マンガの説明能力に着目した「読ませる」広告マンガとは異なるうえに、グラフィックデザインとしての「見せる」広告マンガとも違っている。これらは「読ませる」ことを意識しつつも、説明的ではないかたちでマンガのボキャブラリーを使用することによって、「見せる」ことにも成功している。それはつまり、マンガとしても、広告としても成立しているということである。紹介した事例はどれもマンガとして十分な可読性と物語性が伴っている。同時に、コマの大小の対比をそのままグラフィック的な強度に転化させたり、色の操作によって構成的なバランスをとったりといった工夫や、絵柄の対比やコピーのユニークさなどに指摘できるように、広告としての機能もしっかりと堅持している。ここでは広告であることとマンガであることが共存し、相乗効果を生むことが目指されているのだ。

四方田犬彦は1994年に刊行された著書『漫画原論』において、「今日では漫画は文字通りわれわれの知的天蓋を覆っているのであって、それはいかなる規矩をも凌駕して、対抗文化ならぬ(文化そのもの(・・・・・・))になり変わった印象を与えている」(註4)と書いている。このコラムが編年的な記述ではなく個々の事例検討に努めたのは、広告に対する網羅的な調査を経ておらず、ゆえにどの広告マンガが広告史上で革新的だったのかに対する評価を下すことができなかったからだ。それどころか筆者が確認できていないだけで、重要な広告マンガの事例を見落としている可能性すら考えられるだろう。それに関しては、この分野に対する研究の充実を待つしかない。

だが四方田が述べるように、1990年代中盤にマンガが「文化そのもの(・・・・・・)」になったのであるとするならば、その影響が1990年代後半以降の広告マンガに現れているという見方も十分成立するように思われる。それによって日本における広告マンガは、「読ませる」だけではなく「見せる」ことへの意識を徐々に高めていき、結果として近年では、両者を両立させるような広告マンガが登場するほど、そのバリエーションが多様化してきたのではないだろうか。これらの事例は単にキャラクターが広告に登場しているのではなく、コマの読み順や、吹き出しといったマンガの形式的な約束ごとのうえに成り立っているのだが、私たちはそれらを難なく理解し、広告のメッセージを受け取っている。

都築潤は師岡の「痴漢撲滅キャンペーン」ポスターについて、「こうした視覚コミュニケーションは、漫画やお笑いが円熟した日本のサブカル風土の中でしか成立しないかも知れない」(註5)と述べているが、それはもちろん師岡以外の広告マンガにも敷衍しうることである。つまり都築が指摘するような社会の許容度と、企業や制作者側の意図が出会ったところに生まれるのが、日本における「広告マンガ」の姿なのではないだろうか。


(脚注)
*1
都築潤、師岡とおる「イラストレーションを語ろう」、「イラストレーション」200号、玄光社、2013年、98ページ

*2
細馬宏通「吹き出しの順序と帰属について」、鈴木雅雄+中田健太郎編『マンガ視覚文化論 見る、聞く、語る』水声社、2017年、151ページ

*3
三輪健太朗「断片化と物質性――マンガとメディアをめぐって」、前川修+奥村弘編『マンガ/漫画/MANGA -人文学の視点から-』、神戸大学出版会、2020年、231ページ

*4
四方田犬彦『漫画原論』筑摩書房、1999年、13ページ

*5
都築潤「師岡とおるさんの仕事「痴漢撲滅ポスター」(都築潤)」、東京イラストレーターズ・ソサエティ(TIS)、2013年11月25日 https://www.tis-home.com/column/detail.html?id=1461

【参考文献】
アイデア編集部編『漫画・アニメ・ライトノベルのデザイン』誠文堂新光社、2011年
『コミックmixデザイン アニメ・マンガ・ゲーム・キャラクターを使った広告・キャンペーン特集』パイインターナショナル、2015年

※URLは2020年10月22日にリンクを確認済み