東映動画は1956年から1998年にかけて日本のアニメーション業界を牽引し、現在では「東映アニメーション」として人気テレビアニメシリーズの制作を手掛ける。『東映動画史論 経営と創造の底流』では、その60年にわたる活動を作品や作家から論じるのではなく、企業史から実証的に解き明かした。

『東映動画史論 経営と創造の底流』表紙

映像産業の史的ダイナミズムを実証的に解き明かす労作

今から4年前の2017年、日本のアニメーションが生誕から100年を迎えたことはまだ記憶に新しいだろう。偶然にも2010年代は、『君の名は。』(新海誠監督、2016年)や『この世界の片隅に』(片渕須直監督、2016年)の大ヒットなどによって、第4次アニメブームが到来したともいわれたが、そうした日本アニメーションの歩みにも、近年、さまざまなところから新たな光が当てられるようになっている。

なかでも注目されたのが、本書がテーマとする1956年に創立したアニメーション制作会社「東映動画」だろう(註1)。現在では、「東映アニメーション」と改称されたこの企業は、一般的には、1950年代から数々の劇場用映画やテレビシリーズを制作し、今日でも「ONE PIECE」シリーズ(1999年~)や「プリキュア」シリーズ(2004年~)などの誰もが知る人気タイトルを多数手掛けることで知られている。また、アニメファンならば、この会社が、メジャー映画会社の「東映」が「東洋のディズニー」を目指して設立し、「戦後日本の商業アニメーションの源流」(註2)とみなされる日本最初の本格的なアニメーション企業であったこと、また、2021年3月に死去した大塚康生やのちに「スタジオジブリ」を立ち上げる高畑勲と宮崎駿、そしてより最近では幾原邦彦や細田守などなど日本のアニメ界を担う数多くの優れた才能を輩出したという経緯でも有名かもしれない。さらに2019年には、NHK朝の連続テレビ小説(朝ドラ)で放送された『なつぞら』の物語の舞台(東洋動画)にも着想を与えたことで広い社会的認知も獲得しただろう。

2020年9月に刊行された本書は、著者の博士論文に基づくこの東映動画の企業史を分析したアニメーション史の研究書である。具体的には、東映動画の歩みを「作品や作家ではなく企業の動向から追うことで」(註3)、「産業構造の中でアニメーションという文化と、その生産過程が、いかなる動因によっていかなる史的変化を経てきたか、実証的な解明を行うこと」(註4)が目指されている。

この本書の問題設定と方法論にはまず、いまだ発展途上にある日本の学術的なアニメーション(史)研究の現状に対する著者の批判的な問題意識が基盤にある。そもそも著者が採用する映像産業史ないし企業史と称されるアプローチ自体、多くの読者にとってはまだ珍しいものに相違ない。著者が記す通り、「従来、アニメーションに限らず大衆文化に関する研究は、作品論や作家論の視点に傾斜しがちだった。この傾向を引き継いだ学術研究も、[…]表象文化論が主たる領域を形成し、その成果を蓄積させてきた」(註5)。例えば東映動画に関する先行研究や批評であれば、これまでそのほとんどは、のちに世界的なアニメーション監督となる高畑や宮崎といった一部の「巨匠」や彼らの生んだ「傑作」について論じるものであり、ややもすれば列伝的な記述に傾斜しがちだった。また歴史研究にしても、そこで主要な参照軸となってきたのは、社会反映論を含む社会史や思想史的な知見に限られてきた。

すなわち、著者はこれまで「大衆文化を捉える際、それが文化産業独自の構造に拘束されながら生産され、また流通している商品であるという点が、あえて等閑視されたこと」を問題視する(註6)。そして別稿で記すように、学術的なアニメーション史研究の確立のためには、そのような「「傑作」や「巨匠」という目立った諸点を繋ぐことによる歴史著述から離れ、作品や「作家」が形成される史的諸相を、可能な限り実証的に描き出す」作業が求められることを強調する。いわば「社会思想の従属物でもなく、また「傑作」や「巨匠」に牽引されるのでもない、経済的な構造の中に位置づけられて変転する文化創造の過程の史的ダイナミズム」(註7)を捉えること――東映動画をひとつのモデルケースとして本書で著者が試みるのは、そのような作業である。さらにそのことで、これまでの日本アニメーション史の記述において、半ば絶対的な正統とみなされ、あるいはその作品群がカノン(聖典)化されてきた東映動画に対する評価を相対化することも目指されるのだ。

年代ごとに東映動画の歴史をたどる

以上のような視座に基づき、本書はほぼ時系列に沿って分けられた4つの章とひとつの補論で構成されている。1950年代から1960年代前半までを扱うⅠでは東映動画発足の経緯とその草創期の制作体制や労働組合の形成過程が論じられる。IIでは劇場用作品の増産やテレビアニメの制作が始まる1963年以降の数年間を対象に商業アニメーション制作にまつわるさまざまな実践の蓄積に焦点があてられる。Ⅲでは東映動画のアニメーション事業が一定の成果を見る1960年代末から経営危機により一度確立した体制が揺らぐ1970年代前半までが取り上げられる。

そして著者が注意を促すように、これまでの東映動画の歴史をめぐる言説は、1972年に起こる人員削減と労使紛争に前後して、劇場用作品の継続的製作が中断し、また高畑や宮崎といった日本アニメ史のキーパーソンたちが一斉に退社してしまう1970年代前半までの時期にその関心と言及が集中してきた。その意味で、本書の研究の大きな独自性のひとつは、それ以降の1970年代から1980年代に至る東映動画の経済改革の実態を、経営危機以前の施策との通貫的な視点において跡づけたⅣと、東映アニメーション改称後の1990年代以降の動向について概観する補論にはっきりと表れているだろう。

以上の東映動画の60年近くにわたる企業史を、著者は、公刊されている史料のほか、東映動画の社内文書をはじめ、労働組合関係の議案書やガリ版刷りニュースに至る貴重な非公刊の膨大な1次史料、さらには関係者に取材したオーラルヒストリーの口述史料を縦横に参照しながら、実に丹念かつ実直に解き明かしていく。その作業を通じて、これまでのさまざまな「通説」が覆されるとともに、いまだ知られざる東映動画の歴史が私たちの前にいきいきと甦ってくるのだ。

例えば、高畑の監督デビュー作『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)が劇場公開当時、記録に残る不入りだったということが当時の関係者の証言などから従来のアニメ史ではしばしば自明のことのように語られてきた。しかし著者は、『興行年鑑』などの資料による当時の動員数比較から少なくともそうした証言には「十分な信頼性に欠けている」ことを注意深く指摘する(註8)。あるいは、これもアニメ業界で長年流布してきた「虫プロダクションが『鉄腕アトム』(1963~1966年)の制作当初、放映権料をあえて低く抑えたことが今日のアニメ業界の低廉な制作条件に繋がった」という有名な通説に対し近年のアニメーション研究ではむしろその虫プロの判断を肯定的に評価する議論が現れているけれども、これについてもいくつかの実証的な根拠から改めて疑問を提起している箇所も興味深い(註9)。こうした批判的検討のなかには、「東映動画と満映の類縁性に着目した」(評者を含む)近年の研究言説も加わる(註10)。まさに「可能な限り実証的に」「経済的な構造の中に位置づけられて変転する文化創造の過程の史的ダイナミズム」を明らかにするという著者の地道な考察によって、戦後アニメーション史の諸相がかつてない鮮明な輪郭で浮かび上がってくることに読者は驚かされるだろう。

そのほかにも、とりわけ草創期における教育映画事業との関係、海外輸出の模索、海外アニメーション受容の実態、そしてその後のテレビシリーズの制作開始後、東映動画において効率的・合理的な制作体制確立のために、戦前以来の「アニメーター主導」の制作工程に代わり、現代のレイアウトシステムにも通じる「演出中心主義」と呼ばれる考え方が台頭していったこと……などなど、本書(あるいは総じて著者の研究)が初めて包括的・実証的に明らかにした事績も多い(Ⅱのいわゆる「小田部問題」などで触れられる当時の女性社員の労働環境をめぐる議論などは、『なつぞら』の視聴者もおもしろく読めるはずだ)。

さらに本書の議論の多面性を支えているのは、以上のようなアニメーションの制作現場や企業経営にまつわる実証的分析のみならず、そうした下部構造とも連動する当時のアニメーション作品の映像表現や演出の分析も随所に盛り込まれている点だろう。そのなかでも、森康二演出による草創期の短編作品『こねこのスタジオ』(1959年)や『ガリバーの宇宙旅行』(1965年)をめぐる分析や指摘(註11)は刺激的である。先にも触れたように著者自身は従来のアニメーション史研究における「作家論」や「作品論」への偏重傾向を指摘していたけれども、一方で本書の各所にちりばめられた作品に対するさまざまな言及からは、著者が優れた批評的感性の持ち主であることもうかがわせる。

ともあれ、この労著が東映動画のみならず、学術的なアニメーション研究にもたらした達成は大きい。だからこそ、読者としては、例えば演出中心主義の成立に「六〇年前後の日本映画界におけるヌーヴェルヴァーグ受容と、それに基づいた監督主義の認知があった」(註12)と軽く触れられるにとどまるようないくつかの指摘には、それを実証的に裏づけるさらなる成果を期待したい。

著者はⅣの末尾で、「東映動画はその初期から、しばしば作者不在のスタジオとの評価を下されてきた。しかしそれは、東映動画が「一人の偉大な巨匠」によって率いられる独立プロダクションではなく、様々な立場や志向を持ったスタッフの「たくさんの方法」の総合によって成り立つ組織だったからだろう。[…]この過程はcultureという言葉の原義と重なる。本書が[…]記述しようとしてきたのは、[…]実はこの「文化」であった」(註13)と記している。しかし、映像産業の創造と経営に関わる人々の思考と実践の軌跡を驚くほどの地道な作業で解き明かした本書もまた、日本のアニメーション研究を「耕し、時に守り、育て、また修める」(同前)、「文化」の最良の例となっているだろう。


(脚注)
*1
東映動画は、政岡憲三、山本善次郎らが1948年に設立した「日本動画株式会社」(1952年に「日動映画株式会社」と商号変更)を東映が買収する形で創立された。

*2
木村智哉『東映動画史論 経営と創造の底流』日本評論社、2020年、10ページ

*3
同上、1ページ

*4
同上、8ページ

*5
同上、9ページ

*6
同上、9-10ページ

*7
「アニメ史研究原論——その学術的方法論とアプローチの構築に向けて」、小山昌宏・須川亜紀子編『アニメ研究入門【応用編】 アニメを究める11のコツ』現代書館、2018年、199-200ページ

*8
前掲(註1)、175-177ページ

*9
同上、113-115ページ

*10
同上、81ページ

*11
同上、64-65、124ページ

*12
同上、131ページ

*13
同上、303ページ


『東映動画史論 経営と創造の底流』
著者:木村智哉
出版社:日本評論社
発行年:2020年
定価:税込3,520円(本体価格3,200円)
https://www.nippyo.co.jp/shop/search?search_kind=all&search_operator=and&keyword_all=978-4-535-55963-9

※URLは2021年6月16日にリンクを確認済み