2021年初春に刊行されたアニメ評論家・藤津亮太による『アニメと戦争』(日本評論社)。戦前の国威発揚のためのアニメーションから、『宇宙戦艦ヤマト』(1974~1975年)、『機動戦士ガンダム』(1979~1980年)、平成時代の作品に至るまで、各作品が「戦争」をいかに取り扱ってきたのかを通底した一冊だ。アメリカンコミックの作家たちが2001年の同時多発テロ以降、「戦争」とどう向き合ってきたのかを書いた『戦争はいかに「マンガ」を変えるか―アメリカンコミックスの変貌』(NTT出版、2007年)を著書に持つマンガ評論家の小田切博。二人の対談からフィクションにおける戦争の姿について考える。

『アニメと戦争』表紙

『アニメと戦争』で提示された歴史観

まずは藤津さんの『アニメと戦争』について、小田切さんの感想を伺えますか?

小田切:すごく攻めた本ですよね、藤津さんご自身が覚悟を決めて批評をした一冊だと思います。事実を並べる通史ではなく、ある種の歴史観を提示している印象を受けました。

藤津:『アニメと戦争』というタイトルですが、今回の本の内容を正確に言えば「アニメと戦後」なんですよね。日本における戦後という長い時間軸のなかで、戦争の扱いの変遷がアニメにどう影響したのか、ということが大きな軸です。15年ほど前に原稿で『宇宙戦艦ヤマト』(1974~1975年)から『機動戦士ガンダム』(1979~1980年)への変遷を書いたのですが、それを前後に伸ばしていくことができないかと考えたのが出発点でした。

小田切:戦後と言いましたけど、歴史学者の成田龍一のフレームワークを当てはめるのであれば、『アニメと戦争』は近現代史について書かれた本ですよね。特に近代が重要なファクターではありますが、『アニメと戦争』には戦前の状況も書かれています。コンテンツの中身のみならず、社会状況、産業、テクノロジーといった歴史的な外枠の部分もすごく考慮して書かれているなと思いました。いっぽうで僕の立場からですと不満な部分もあって、例えば玩具マーケットとの関係についての話などはもう少し広げてほしかったかもしれない。

藤津:一応、そのあたりは60年代にあった戦記ものブームについての記述に代表させたかたちですね。そこを細かく解像度を上げていってもアニメの話ではなくなってしまうので。ただ、読んでいると玩具やマンガといったアニメの隣接領域のことが気になってくるというのはよくわかります。例えば実写映画とかマンガとか。でも、今回は大きなフレームのなかのアニメ方面で通観するものを書いていこうと考えました。それでも、アニメ作品ですら取りこぼしたものがあると思っています。

2007年に刊行された小田切さんの著書『戦争はいかに「マンガ」を変えるか―アメリカンコミックスの変貌』(以下、『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』)ですが、当時はどのようなフレームを意識して書かれたのでしょうか?

小田切:「マンガと戦争」というフレームとしては、先行するものとして夏目房之介さんの『マンガと「戦争」』(講談社、1997年)や大塚英志さんの一連の仕事があったので、異なる枠組みを提示する必要がありました。僕の場合はアメリカンコミックスなので、そこに比較文化論的な視点を入れて書くことにしたんです。

藤津:今回、『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』を読み直してみて、アメリカンコミックでは、作品の送り手が作品に対する当事者としての意識が影響としてダイレクトに出るものだと思ったんです。いっぽうで日本のアニメ産業は戦後直後は規模が大きくなかったこともあり、産業として本格化したのは1960年代前後からです。つまり、1945年の敗戦から15年ほどの時差があるわけです。この時差があることで、当事者性がどうしても薄くなる。戦後の日本は現在にいたるまで、国際政治のなかで戦争の一翼は担ったことはあるかもしれませんが、広い意味では直接的に戦争に巻き込まれることはなかったし、そう思いながら生きてこられた。その裏腹としてアニメがあることは否めないと感じました。

小田切:当事者性ということは、僕も『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』を書いていたときに常に考えていました。あの本は、2001年のアメリカ同時多発テロ事件(以下、911)をきっかけとして書いたものです。当時あの事件は日本人からしたら他人事だろうという前提があり、他人事のうちにああした歴史的な事件が起こった際のつくり手や受け手の「当事者性」について考えておいたほうがいいのではないかと思っていました。その後、2011年に東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故が起きた際に、日本のクリエイターやファンのあいだで語られた表現することへの戸惑いや自省は、911の際にアメリカで起きたことを想起させるものでした。

藤津:まさに小田切さんの著作は、911のときにアメリカに住むマンガ家たちが「何かを言わざるを得なくなった」ことについての記録ですよね。

小田切:今回の『アニメと戦争』はアニメを俯瞰した視点から社会的な立場やその背景としての産業構造などにも目配りしつつ踏み込んだ書き方をされています。正直、アニメやマンガを語るときには、そういったところを無視したほうが楽しくやれるわけですよね。でもそこを無視してしまうと、歴史のなかでいかにその作品が生まれたのかという話が通じなくなってしまう。

『戦争はいかに「マンガ」を変えるか―アメリカンコミックスの変貌』表紙

コンテンツから現実は語れるのか

「コンテンツから語ることで戦争が語れる」という立場に対する疑念が、お二人のお話からは感じられます。

藤津:アニメから戦争を知ることができるとすれば、それは何か細かいディティールについてのことでしかなく、実体験をする以外で本当に戦争を知るためには、戦争について書かれたしかるべき本を読めということになる。アニメはエンターテインメントの要素として戦争を取り入れているし、真面目に取り扱っているように見えるものでも結果的には消費していると言えます。その批判は免れないし、そういうつもりで付き合うしかない。だから『アニメと戦争』は「我々には戦争を消費しても後ろめたさが最小限である社会に生きている幸福がある」というつもりで書いています。その根っことしては、自分が子どものころ、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』が好戦的だと言われていたことにあります。確かに好戦的かもしれないけど、それだけではないという気持ちがもやもやとあったわけですね。それを大人になって整理したときに、小田切さんが言うように「フィクションと現実を混ぜすぎないほうがいい」ということに帰結したわけです。現実はフィクションに反映されているけど、フィクションから現実を取り出すことはできないということです。

小田切:コンテンツから現実を取り戻そうとする内在論への違和感がありますよね。戦争はコンテンツと現実の相関関係からしか語ることができないという前提がないと、まずいとは思います。

藤津:そこは本当に同意です。戦争を他人事としてフィクションで楽しめる幸福という戦後日本があり、消費社会の申し子である「オタク」がそのなかに居たわけです。

小田切:現代社会ではある意味、社会そのものが戦争のようになってしまっています。911以降、現代の戦争とはテロとの戦いとなっています。多様性というのは価値の対立があるということとニアイコールだとすれば、BLMやアジアンヘイト、MeToo運動も戦争と言っていいかもしれない。現代は対立が社会のなかで顕在化しているという状況ですよね。ベルリンの壁が崩壊して以降、旧来的な国家という枠組みとは違うかたちでシステムができあがっているので、90年代以降のグローバルな社会的・文化的な交通関係を見ないと、アニメやマンガといったローカルな歴史も語ることができない。だからメタ的な視点が必要だという話になってきていると思います。

藤津:本を書いているときに迷いましたが、世界で起きていることを我が事のように考える感性を持ったほうがいいのかとも思いますが、いっぽうでそれが自分たちの生活感覚と遠すぎることも自然です。少なくとも日本の多くの人は、通勤通学の途中での命の危険に晒される状況というのは限られているし、世界のことを我が事として考えろというのも理想論すぎる気がします。良くも悪くも戦後が続いていたことでそういった感覚が生まれたことが、コンテンツからはよくわかりますよね。

「戦争ごっこ」であることの重要性

これまでのお話にあったような現状の認識を踏まえたうえで、911を発端とした21世紀以降のコンテンツはどのように変化していったのか、お二人の考えをお聞かせいただけますか?

藤津:世界があってそこから切り取るのではなく、世界の仕組みそのものをつくってしまうという傾向は見られるかもしれません。2000年代の半ば頃から、いわゆる「萌えミリ(萌えミリタリー)」と呼ばれるものが登場します。歴史をダイレクトに扱うものがあるいっぽうで、趣味化した戦争を扱う作品も目立つようになります。その前史として、1990年代の架空戦記ブームがあった、という見取り図をつけることも可能かと思います。

小田切:しかし、「萌えミリ」もゲームの影響は大きいですよね。やはり特定のジャンルのみで作品を語るのが難しくなっている。「機動戦士ガンダム」シリーズ「(以下、「ガンダム」シリーズ)」も小説だった『閃光のハサウェイ』(角川書店、1989~1990年)が2021年に映画化しました。アメリカンコミックを語るためにも、映画やドラマといった映像化されたメディアとともに語らなければいけないようになってきています。

藤津:「ガンダム」シリーズも、当初つくり手が作品に込めた思いと、消費の方向性がずれていっています。関連玩具であったガンプラが独立したコンテンツになっていく過程なども含めて、そこが「ガンダム」シリーズのおもしろいところでもあります。だからなぜそういうことが可能になったのかという点は『アニメと戦争』にでも力を入れて書きました。書きながら思ったのですが、「戦争ごっこ」って昔から遊びとして存在するわけですよね。戦いを遊びのなかでやるということです。アニメやマンガはかつて本物の戦争を題材にしていたのだけど、日本の場合はどうしても扱いづらく、後ろめたさもあった。それを「ガンダム」シリーズが変えたことで楽しめるようになったわけですね。

小田切:初代の『機動戦士ガンダム』は、当時の国際政治状況や第二次世界大戦、戦後民主主義の批評でもあった。そうした当時意図していた批評性がだんだん通じなくなるということですよね。

藤津:現実の歴史上の固有名詞を持ってこなかったのは「ガンダム」シリーズにおいて、さまざまな意味で慧眼ですよね。「宇宙世紀」であって現実の歴史ではない。だからエンターテインメントとして後ろめたさもなく、今もシリーズがつくられるということですね。

「戦争ごっこ」というのがフィクションと戦争を考えるうえで重要なキーワードになりそうですね。

小田切:現実のカタストロフをフィクションの題材にするときに問われるのは、そこにどう向き合い、どう消化するかという手続きです。だから作品としてはあくまで「戦争ごっこ」として割り切ってやるべきだと思うし、つくり手も受け取る側もそれを「戦争ごっこ」だと言うべきだと思うんです。『アニメと戦争』ではそこをはっきり言っていますよね。

藤津:「戦争ごっこ」の「ごっこ」というのは決して揶揄しているわけではなく、「本物ではない」ということなんですよね。本物の戦争というのは、皆が当事者になり、銃後で働いたり前線で戦うことだとしたら、それ以外のエンターテインメントは基本的に「ごっこ」であると最初から覚悟するべきです。フィクションで何かをわかった気にならないためにも「ごっこ」と言いきるべきだと。そこは小田切さんが『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』で書かれたことも同じかもな、と思います。

小田切:例えば小林よしのりの『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(幻冬舎、1998年)などで語られる主張も、「戦争ごっこ」だと思いながら読まなければいけないと思うんです。ああいうコンテンツで語られる国家への忠誠や国際関係へのあり方みたいなものを現実と地続きな、あるいは抽象化された普遍的な構造として理解することは危険です。小梅けいとによってコミカライズされたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチのノンフィクション『戦争は女の顔をしていない』(原作:1985年、コミック〔第1巻〕:KADOKAWA、2020年、速水螺旋人監修)も、コミックス版はキャラクターにしている時点で「ごっこ」ではあるでしょう。戦争についての知見って、本当は歴史を学ぶ以外に持ちようがない。「現実的なものを題材として取り扱っていれば現実に近い」という見方はすべきじゃないし、フィクションからすべてを学べるというのは倒錯していると思います。どういう時期に、どういうかたちで受容されていたのかという話をしない限り、作品は語れない。作家も社会のなかにいる人の一人ですから。


『アニメと戦争』
著者:藤津亮太
出版社:日本評論社
発行年:2021年
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/8466.html

※URLは2021年8月4日にリンクを確認済み