青少年向け小説における表紙イラストレーションは、1970年代中盤からマンガやアニメと接近しはじめ、1990年代前半までには、その絵柄に近い印象の表紙を持つ小説が定着した。この頃から一部のパソコン通信のコミュニケーションではライトノベルという言葉も使われるようになり、ジャンルとしての輪郭が形づくられていく。そんななかで、イラストレーションにはどのような変遷があったのだろうか。後編では前編では触れられなかった、1990年代後半以降の状況を概観したい。

いとうのいぢ、谷川流原作『いとうのいぢ画集 ハルヒ主義』角川書店、2009年

洗練されていった表紙デザイン

他ジャンルとの関わり合いのなかでひとつのジャンルとして定着したライトノベルであるが、その後さらなる変化を表紙イラストレーションにもたらした事例として紹介したいのは、1998年にシリーズの刊行が開始された上遠野浩平による『ブギーポップは笑わない』である。緒方剛志がイラストレーションを手掛けた同シリーズ1冊目の表紙(図1)は、キャラクターのシンプルな立ち絵である。「派手なデザインが多い」とされるライトノベルの表紙にあって、白い背景のシンプルなものは当時珍しかった。デザインを担当した鎌部善彦は同書について次のように語っている。

図1 上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』メディアワークス、1998年[装画・緒方剛志]

電撃文庫は後発だったこともあってか、デザイン的に冒険できたというか、イラストレーターのスタイルも成熟し、多様化していく中で臨機応変に対応できるような懐の深さがあったのかもしれないですね。(註1

緒方はイラストレーターとして、勇ましかったり、かわいかったりするキャラクターを描くタイプというよりかは、クールな方向性を持ったキャラクターを描く人物である。目の大きさもアニメ/マンガ的なイラストレーションを得意とする描き手のなかでは比較的小さい。ゆえに『ブギーポップは笑わない』の表紙は市場が成熟するなかで求められるデザインの差異性と、イラストレーターの個性が合致した作例だといえるだろう。このようにしてライトノベルの表紙は、定型的な青少年向けのパッケージングとは一線を画す洗練を、イラストレーションやデザインによって達成したのである。2006年の扇智史『永遠のフローズンチョコレート』(装丁・イラストレーションはともにワダアルコが担当)の表紙(図2)におけるキャラクターの裁ち落とし、小さなタイトル表記といった積極的なデザインも、『ブギーポップは笑わない』がなければ生まれていなかったかもしれない。

図2 扇智史『永遠のフローズンチョコレート』エンターブレイン、2006年[装画・ワダアルコ]

いとうのいぢのキャラクターの描き方

2000年代の中頃から、アニメ化される作品が増えていき(註2)、それもあってかライトノベルというジャンルは一般的な認知を獲得するようになるのだが、そのような状況が生まれるひとつのきっかけとしての役割を果たしたのが、谷川流による「涼宮ハルヒ」シリーズのヒットである。いとうのいぢの同シリーズの表紙イラストレーションは、ほぼ白い背景にキャラクターとタイポグラフィのみで構成されている。その点において「涼宮ハルヒ」シリーズの表紙は、『ブギーポップは笑わない』で鎌部の提示した方向性の延長線上にあり、かつヒットしたことによって、白い背景とキャラクターの組み合わせを、様式として定着させたと指摘できるだろう(註3)。

シンプルな背景にキャラクターを組み合わせることは、文庫という小さなサイズにおけるインパクトを最大化する効果もあったと思われるが、ここで言及したいのは、表紙イラストレーションを担当しているいとうのいぢのキャラクターへのアプローチである。2005年から翌年にかけて刊行された『涼宮ハルヒの動揺』、『涼宮ハルヒの陰謀』、『涼宮ハルヒの憤慨』の3冊の表紙を見てみよう。もともと「涼宮ハルヒ」シリーズの表紙は、最初の4冊もキャラクターを立たせ、片手を上に、もう片方を下にすることを共通させるなど、キャラクターのポージングに対してのこだわりがうかがえる装画が多いが、特にこの3冊はそれがわかりやすい(図3)。なぜなら各巻のキャラクターに手を目にあてるという共通のポーズをとらせ、その違いによってキャラクターの性格の違いを表現しているからである。『涼宮ハルヒの動揺』では涼宮ハルヒのはつらつさが、『涼宮ハルヒの陰謀』はでは朝比奈みくるのかわいさが、『涼宮ハルヒの憤慨』では長門有希のぎこちなさがうかがえ、それはそのまま作中での振舞いとも共通している。こうしたシンプルな違いでもそれぞれの装画が一定の独立性を保ち得ているのは、いとうの明快なキャラクターデザインによるところが大きいだろう。いとうは雑誌「季刊エス」52号でインタビューを受けているのだが、インタビュアーはそのイラストレーションの魅力を次のように述べている。

図3 谷川流『涼宮ハルヒ』シリーズ[装画・いとうのいぢ]

のいぢさんの絵のすごいところは、例えば、ハルヒ、みくる、長門みたいに「ツンとした子、ほわっとした子、無口な子」というキャラクター像を、潔く明快なタイプ別に描き分けているんですよね。(中略)「こういう性格の子は、こういうデザイン」と、敢えて限って描いているように見えました。(註4

このようにいとうは、キャラクターを類型化して描くことを恐れない。同じインタビューではいとうがイラストレーションを担当した高橋弥七郎「灼眼のシャナ」シリーズの「シャナも、眉毛がキーッと上がっているけど、のいぢさんの他の作品でもこういう特徴を持つ子がいる(註5)」ことや、同じポーズをキャラクターを変えて繰り返し描くことを指摘されている。もちろん近年のいとうは、知念実希人「天久鷹央の推理カルテ」シリーズに見られるように、担当する作品によっては誇張されたポーズを避け、自然なたたずまいのイラストレーションを描いている。しかし少なくとも2000年代中盤の「涼宮ハルヒ」シリーズの装画においては、ここまで述べてきたように、ある程度パターン化された描き分けをしていたのである。そして2000年代の中盤にいとうが取り組んでいたキャラクターの類型化は、図像に対するひとつの記号的操作だと指摘できるだろう。その観点からすると、同じ2000年代にマンガ・アニメ・ゲームといったコンテンツを愛好する「オタク」に対して、批評的な介入を行っていた東浩紀が『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』において、キャラクターを「萌え要素」の組み合わせとし、以下のような言及を行っていることは興味深い。

「キャラクター」は、作家の個性が創り出す固有のデザインというより、むしろ、あらかじめ登録された要素が組み合わされ、作品ごとのプログラム(販売戦略)に則って生成される一種の出力結果になっている。(註6

東のこの記述は2001年の時点のものだが、キャラクターを要素の組み合わせとして理解し、東の認識とも共通するような意識で、いとうはイラストレーションを描いていたことがここからはうかがえるだろう。またいとうや、その前に取り上げた緒方に共通して言えるのは、彼、彼女が、ゲーム業界にその出自を持っていることである。1990年代前半に活躍した描き手たちもゲームとの関わりはあったが、出自としてはマンガやアニメのほうが多かったように思えるのに比較して、ゲーム業界がイラストレーターのバックボーンとなるようになったのも、1990年代後半以降の傾向なのかもしれない。さらに付け加えておくならば、この世代からデジタルで作画を行うイラストレーターたちも増えていったことも重要だろう。

他ジャンルへ伝播するライトノベル的手法

2000年代のライトノベルのイラストレーションにまつわる話題としては、ライトノベル的なるものが、その他書籍のジャンルに拡散していった状況についても触れておこう。例えば、2008年に集英社から発売された、太宰治『人間失格』の文庫はマンガ家の小畑健が装画を手掛けヒットしているし、2009年にはライトノベル風の表紙の持つ岩崎夏海の『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』(イラスト・ゆきうさぎ、背景・結城貴昌[bamboo]、ダイヤモンド社)もヒット作となり、社会的にも大きな話題を呼んだ(図4)。このように純文学や経済を題材にした書籍へとライトノベル的な表紙が広がっていったことは、2000年代中盤の「ライトノベル・ブーム(註7)」の延長線上にも位置づけうる出来事である。

図4 岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』ダイヤモンド社、2009年[イラスト・ゆきうさぎ、背景・益城貴昌(Bamboo)]

そして本コラムの主題である表紙イラストレーションについて言えば、2010年代に入ると文体や登場人物の性格付けがライトノベル的な傾向を持つことが多い、ウェブ小説の書籍化の動きが目立ってくることにも言及しておきたい。インターネット上に発表されるウェブ小説のプラットフォームとして代表的なサイトに「小説家になろう」があるが、同サイトは佐島勤『魔法科高校の劣等生』が2011年に書籍として電撃文庫より出版されたことで人気が出たと言われている。「こうしたウェブ小説に惹かれる書き手や読み手には、かつてラノベを読んでいた三〇代、四〇代が少なくない(註8)」と飯田一史は指摘しており、一定の経済力を持つ大人が好んで読んでいることも関係してか、ウェブ小説の書籍化にあたっては、伏瀬『転生したらスライムだった件』(マイクロマガジン、2014年~)や香月美夜『本好きの下剋上 司書になるためには手段を選んでいられません』(TOブックス、2015年~)のように文庫ではなく単行本で出版されるケースも多い。こうしたライトノベルと一般文芸のあいだに位置づけうる小説は、「ライト文芸」と主に通称されており、これらのタイトルのヒットによって、文庫ではなく四六・B6判の単行本レーベルも定着していく。その結果、ライトノベル的な白い背景とキャラクターでは間がもたず、単行本サイズのライト文芸の表紙イラストレーションには、背景が描かれる場合が多くなっていったのだ(図5)。

図5 香月美夜『本好きの下剋上 司書になるためには手段を選んでいられません 第四部 貴族院の自称図書委員Ⅳ』TOブックス、2018年[装画・椎名優]

以上、ライトノベルおよび隣接する小説ジャンルの表紙イラストレーションについて概観してきた。ライトノベルのイラストレーションはその成立以前からアニメ・マンガ業界との関わりがあり、1990年前後のジャンルとしての成立は、そのような流れの延長線上の出来事だった。そしてこうした交流において、アニメの画面にかなり近い表紙イラストレーションが描かれるようになる。やがてライトノベルが成熟・多様化していくなかで、シンプルな背景とキャラクターの組み合わせの表紙が登場し、サイズの小さな文庫でも訴求力のあるデザインとして定着した。そしてライトノベルのさらなる広がりは、ライト文芸という新たな領域を生み出し、大きな判型の装画には背景が描かれることが多くなり、その点において、ライトノベルとの様式的な違いが確認できる書籍も刊行されるようになった。

1970年代から言及を始めたことも関係し、取り上げる事例が断片的なものとなってしまったが、このコラムがライトノベル周辺のイラストレーションの変遷、および日本のイラストレーション史にいくつかのトピックを提示できたのなら幸いである。


(脚注)
*1
鎌部善彦「デザイナーの仕事 ~言葉と絵をつなげる魔術師の技~」、『ライトノベル完全読本』日経BP、2004年、5ページ

*2
ライトノベルのアニメ化本数については、次の資料を参考にした。「おもなラノベ&アニメにおけるヒロイン年表」、『別冊オトナアニメ アニメになったラノベ美少女大図鑑』洋泉社、2011年、108-109ページ

*3
新城カズマ「ライトノベルは“書物”を超えるか」、「小説トリッパー」2012年秋号、朝日新聞出版、7ページ

*4
「いとうのいぢ 表紙&メイキング取材」、「季刊エス」52号、復刊ドットコム、2015年、11ページ

*5
同前

*6
東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社、2001年、67ページ

*7
山中智省「イチゼロ年代のライトノベルへ至る道」、大橋崇行・山中智省編著『ライトノベル・フロントライン2』青弓社、2016年、8ページ

*8
飯田一史『ウェブ小説の衝撃――ネット発ヒットコンテンツのしくみ』筑摩書房、2016年、29ページ


(参考資料)
飯田一史『ウェブ小説の衝撃――ネット発ヒットコンテンツのしくみ』筑摩書房、2016年
石井ぜんじ・太田祥暉・松浦恵介『ライトノベルの新・潮流』スタンダーズ、2021年
「イラストノート」No.50、誠文堂新光社、2019年
『このライトノベルがすごい! 2018』宝島社、2017年