アメリカの教育現場では、社会問題をテーマとする「シリアスゲーム」が授業に取り入れられている。本稿ではこのシリアスゲームの歴史を、アメリカ軍のシミュレータからたどるとともに、2020年9月リリースの第二次世界大戦中の日系人の強制収容を描いた『Prisoner in My Homeland』を紹介する。

アメリカ軍が開発した対戦型シミュレータ「ハッスピール(Hutspiel)」をプレイしている様子

日系人の強制収容を描いた『Prisoner in My Homeland』

1941年12月7日(日本時間では8日)、大日本帝国海軍が真珠湾を奇襲攻撃し日米開戦を迎えた。「Remember Pearl Harbor(真珠湾攻撃を思い出せ)」というスローガンが長らく人口に膾炙したことからもわかるように、敵国から攻撃を受けるという経験に乏しいアメリカでは大日本帝国軍による本土攻撃への恐怖が高まった。翌1942年2月には当時のフランクリン・ルーズベルト大統領は大統領令9066号に署名し、必要な場合にはアメリカ軍が強制的に外国人を隔離することを認めた。この大統領令に従い、戦時転住局(War Relocation Authority)はアメリカ本土の西海岸に住んでいる日系移民と日系アメリカ人を国内の僻地に建設された10の強制収容所に強制的に移住させた(註1)。

日本の学校教育は日系人の強制収容についてほとんど触れないが、アメリカの近現代史では戦後の日系人の名誉回復運動とともに必ず語られる重要なトピックである。戦後の公民権運動の高まりとともに黒人や日系以外のアジア系アメリカ人と連帯する活動家が現れ、第二次世界大戦中の強制収容は人種差別に基づいた間違いであったという声が高まった。1988年には当時のロナルド・レーガン大統領は強制収容された日系アメリカ人に謝罪し賠償を行った。アメリカの学校では、強制収容という戦時中の行為の問題点だけでなく、戦後の政府の公式な謝罪と賠償に至るまでの地道なアクティビズムの歴史も積極的に教えられている。

『Prisoner in My Homeland(母国の中の虜囚)』はこの第二次世界大戦中の日系人の強制収容を描いたシリアスゲームである。架空のキャラクターである10代のヘンリー・タナカを操作し、開戦前のシアトル近郊の島のイチゴ農家での平和な生活から、カリフォルニアの僻地にあるマンザナー収容所での過酷な生活、そしてプレイヤーの選択に応じて多様に変化する終戦後の生活を追体験することができる。『Prisoner in My Homeland』は学校の授業に取り入れることを想定して制作されたゲームであり、トレイラーでは学校の授業内でプレイする様子が紹介されている。子どもたちがグループをつくってノートパソコンを囲んでプレイするだけでなく、時には教師がリードして補助教材を使ったアクティビティやキャラクターの選んだ行動についてのディスカッションを行う。すべての学校がこうした活動をしているわけではないが、アメリカではゲームの教育利用は50年以上の歴史を有している。『Prisoner in My Homeland』は学校のなかでゲームを使う初めての試みではなく、さまざまな先行する事例が存在する。本稿はアメリカにおけるシリアスゲームの歴史を簡単にまとめ、『Prisoner in My Homeland』をその歴史に位置づけて紹介する。

『Prisoner in My Homeland』について授業内でディスカッションを行う様子(公式トレイラーより)

アメリカにおけるシリアスゲームの歴史

学ぶことと遊びのあいだに本質的な違いがないと考えれば、ゲームを教育的に利用するという発想がいつ生まれたのかという問いはほとんど無意味である。学びのなかには常に楽しさがあるし、遊びのなかには常に学びがある。現実の戦争を抽象化したアナログの戦略ゲームは、それら自体として遊ぶ楽しさをもっていると同時に、現実の戦争の戦略についても間接的ではあれ学ぶ機会ともなっている。

コンピュータ・ゲームの教育的利用の起源をさかのぼるとアメリカ軍によるシミュレータの開発史に行き着く。アメリカ軍は1948年にオペレーションズ・リサーチ室(Operations Research Office:ORO)をジョンズホプキンズ大学内に設立した(註2)。オペレーションズ・リサーチとは数学や統計学を利用してある目的に対して最も効率的な手法を研究するものであり、第二次世界大戦中に効率的な軍事作戦の立案のために発展した。戦争ものの映画で将校たちが集まって盤上演習をしている場面を見たことがある方は多いと思う。アメリカ軍のオペレーションズ・リサーチ室の開設はこういったシミュレーションにコンピュータを利用できるようにすることが目的であった。同年、オペレーションズ・リサーチ室は「防空シミュレーション(Air Defense Simulation)」というコンピュータ・プログラムを開発した。これは侵入してくる敵機をミサイルで撃ち落とすための対空ミサイルの適切な配置をシミュレートするためのものであった。1953年にはこのシミュレータの地上戦闘版である「カルモネッテ(Carmonette, Combined Arms Computer Model)」が開発された。これらはゲームというよりはその名のとおりシミュレータだったのだが、これらの開発が後々のアメリカ軍とゲーム産業やエンターテインメント産業との長い蜜月の出発点となっている。

「防空シミュレーション」や「カルモネッテ」は一人で操作するものだったが、1955年にオペレーションズ・リサーチ室が開発した「ハッスピール(Hutspiel)」は2人で対戦してプレイするよりゲームらしい形式になっている(註3)。このゲームは開発と同年の1955年の夏にライン川を挟んでNATOとソ連が軍事衝突をするという設定である。一人のプレイヤーがNATO側を、もう一人がソ連側を操作し、当時の冷戦状況下で起こりうる戦争状況をシミュレーションしたものだ。地上兵力や航空兵力の配置だけでなく、弾薬や石油さらには核兵器などの輸送や供給網にも注意を払う必要があり、かなり複雑なゲームになっている。資料からわかる範囲では、このゲームはいわゆるリアルタイム型であり、ゲームプレイの1秒間が1日の戦闘に相当し刻一刻と変化する状況に2人のプレイヤーが取り組むことで、戦況の判断や意思決定を学ぶというデザインになっていたようだ。冷戦の状況下で本当に起こりうる事態を想定しており、遊びのためではなく軍人の訓練のために設計されていた。「ハッスピール」に続いて、アメリカ軍は類似の教育用ゲームの開発を続けた(註4)。

 

「ハッスピール」をプレイしている様子(左)ならびに同ゲーム内での兵種間で攻撃できる対象を示した図(右)(ともにDorothy K. Clark, Archie N. Colby, Paul Iribe, Nicholas M. Smith, and Lloyd D. Yates, Hutspiel: A Theater War Game, Operations Research Office at the Johns Hopkins University, 1958, pp. 1-16より)

このようにアメリカにおいては軍が制作した数々の軍事シミュレータが、コンピュータを使ったゲームの教育目的での利用の先駆けとなったが、非軍事的なゲームの教育的利用も構想されるようになる。1970年にはクラーク・アプトが著書『シリアスゲーム』のなかで、ゲームの教育や産業への有用性を議論した。この著作のなかではシリアスゲームはアナログのゲームも含む広い概念だが、コンピュータ・ゲームにも紙幅が割かれている。というのも、著者のアプトは60年代にアメリカ軍に雇用されて軍事シミュレーション・ゲームの開発のチーム・リーダーを務めており、1961年に冷戦状況をシミュレートした「T.E.M.P.E.R.」というゲームの開発チームを率いていた。したがって、彼がコンピュータ・ゲームに言及していることは、彼の経歴を考えれば自然なことである(註5)。

アメリカのシリアスゲームの歴史のなかで軍事部門が大きな重要性を占めていることは間違いがないが、コンピュータが普及するようになると非軍事部門でも教育にコンピュータ・ゲームをつくるという試みが始まった。『ザ・オレゴン・トレイル』という1970年代の初頭のゲームがおそらく最初期の事例である。ゲームの設定は19世紀半ばのアメリカ西部で、幌馬車で移動する開拓者の一団をひきいて、ミズーリ州のインディペンデンスからオレゴンのウィラメットバレーまでをつなぐ「オレゴン・トレイル」を無事に移動するのが目標だ。道中でランダムにイベントが発生し、仲間が病気や怪我をしたり、轍に車輪を取られて馬車が壊れたり、食料が尽きて餓死したり、渡河の際に急流で馬車ごと流されたりといったトラブルにみまわれる。医療品、食糧、馬車の修理資材などを事前に調達しておき、途中の休憩地点で他の旅人と持ち物を物々交換したり、狩った動物の生皮を売却して資金をやりくりしたりすることで、さまざまなトラブルに対処するというゲームである。したがって、ゲームシステム面ではローグ・ライクに近く、資源管理がゲーム性の中心にある。最初期のバージョンはテレタイプ端末で紙テープに文字情報を出力してゲームを行っていたが、後のバージョンでグラフィック要素が追加され、現在に至るまでシリーズ作が出続けている。2021年にはApple社のArcade上で最新のバージョンが発表された。

『ザ・オレゴン・トレイル』(1990年版)のプレイ画面(インターネット・アーカイブより)

『ザ・オレゴン・トレイル』は1971年にミネソタ州の大学生たちが開発した。学生教師として8年生(日本の中学2年生)の授業を担当していた歴史専攻の学生が西部開拓について教えるように指示され、彼は史実のオレゴン・トレイルをテーマにしたボードゲームをつくることにした。アパートで作業に取りかかっていたところ、彼の友人たちが参加することになり、数学専攻の友人がコンピュータ・プログラムにすることを提案した。彼らはチームとしてこのゲームの制作に取り組み、同年の12月に中学校で実際に利用することになった。その後、この歴史専攻の学生はミネソタ教育コンピュータ協会(MECC)に勤めるようになり、1974年にアップデート版を発表、翌1975年にはメインフレーム・コンピュータを共有して利用するためのタイム・シェアリング・ネットワーク上でミネソタ中の学校からアクセスできるようになった。当時の大学生たちが大学のコンピュータを利用してプログラムを書くこと自体は稀ではなく、例えば世界初のシューティングゲームと言われる『スペースウォー!』は1962年にMITの学生が開発したものである。このような事例と比べると『ザ・オレゴン・トレイル』はプログラムとして目新しいわけではなく、おそらくゲーム内容自体はリアルタイムで対戦を行う「ハッスピール」と比べるとかなり素朴なものだろう。だが、非軍事部門において教育目的で開発された最初のゲームとして重要な一歩となった。

70年代には民生用のアーケードゲーム機や家庭用ゲーム機が数多く販売されるようになり、教育的なゲームも開発された(註6)。アタリ社のアーケードゲーム『バトルゾーン(Battlezone)』(1980)を基に陸軍の要請で開発された戦闘車の視点でヘリコプターを撃ち落とす『M2ブラッドレー歩兵戦闘車訓練機(The Bradley Trainer)』(Atari, 1981)なども生まれたたが、このような戦争をテーマにしたゲームは教育目的よりも純粋にエンターテインメントを目的としたものが多数制作された。教育要素を強く打ち出したものとしては、子どもたちが糖尿病をコントロールすることを学ぶことを目的とする『キャプテン・ノボリン(Captain Novolin)』(Raya Systems, 1992)が挙げられる。文化に関する教育では、ルイ14世の治世のヴェルサイユ宮殿を舞台に、実際の歴史上の人物と会話したり芸術作品を見たりしながら、ヴェルサイユ宮殿を破壊しようとしている犯人を探す『ヴェルサイユ1685(Versailles 1685)』(Cryo, 1997)というゲームが発売された。家庭用ゲーム機に供給される作品の多くはエンターテインメント的なもので、こういった教育用ゲームは細々とつくられ続けた。

2000年代におけるシリアスゲームの流行

2000年代初頭にシリアスゲームがアメリカ社会のなかで大きな注目を集めるようになる。藤本徹によれば、この流行は大学経営をシミュレーションする2000年の『ヴァーチャルU(Virtual U)』とアメリカ陸軍が開発した2002年の『アメリカズ・アーミー』という2つの重要なシリアスゲームがきっかけとなった(註7)。

『ヴァーチャルU』はプレイヤーが経営者となって大学を運営する「シムシティ」シリーズのようなシミュレーション・ゲームである。教育や研究だけでなく寄付金を獲得するためにスポーツチームを強化するといった北米の大学のリアリティーを追求している。このゲームについて特筆すべき点はその開発体制である。ジャクソン・ホール高等教育グループという研究機関が企画立案し、非営利の財団が資金を提供、大学経営に関するデータはペンシルバニア大学が提供している。全体のプロジェクト管理やゲームの開発には民間企業も関わっている。

『ヴァーチャルU』のプレイ画面(インターネット・アーカイブより)

一方、2002年の『アメリカズ・アーミー』はアメリカ陸軍が新兵勧誘のために始めたプロジェクトである。アメリカ軍は新兵勧誘に大規模な予算をつけてパンフレットやテレビCMなどを制作していたが、これらの宣伝手段があまり効果的ではないため、若者によりアピールするゲームを利用することを決めた。『アメリカズ・アーミー』はいわゆるFPS(First Person Shooter)と呼ばれる一人称視点のシューティングゲームで、物語の舞台や作中で使われる装備には実際のアメリカ軍の施設や装備が利用されている。このゲームはアメリカ軍のウェブサイトから無料でダウンロードすることもできるし、アメリカ軍の新兵勧誘施設でのCDの無料配布も行われていた。『ヴァーチャルU』が産学連携プロジェクトとしてシリアスゲーム開発の典型例として重要であったことと比べると、『アメリカズ・アーミー』はそのゲーム自体の絶大な人気を誇ったが重要だ。2006年時点で登録ユーザー数は760万人に達しており、その人気からアメリカ軍はこのゲームのマーケティングツールとしての有用性を確信し多額の予算を投じてアップデートを続けていた。

『アメリカズ・アーミー』のパッケージ(インターネット・アーカイブより)

これら2つのシリアスゲームの成功を受けて、2002年にワシントンDCの非営利研究機関であるウッドロー・ウィルソン国際研究センターがシリアスゲームを普及するために「シリアスゲームズ・イニシアティブ」を設立した。2004年にはゲーム開発者会議の一環でシリアスゲームの開発者と研究者が一同に会する「シリアスゲーム・サミット」が開催され、このイベントはその後毎年開催され続けた。ゲーム市場の飽和といった背景もあり、2000年代初頭にシリアスゲームという概念が再注目されるようになった。

公共的な関心が高まったことで生まれたシリアスゲームの事例としては、2005年に国連世界食糧計画(WFP)が発表した『フード・フォース』が挙げられる。インド洋の架空の島への食糧援助をするゲームで、現実の食糧支援をモデルにしたミッションをこなすことで国連の食糧支援活動への理解を促すことを目的にしている。各ミッションは数分でクリアできるごく短いもので、クリア後にはWFPの取り組みを紹介するアニメーションや解説が流れる。授業で利用するための教師用マニュアルや詳細な情報へのリンクも提供されているため、学校での授業に組み込みやすいつくりになっている。『アメリカズ・アーミー』が絶大な人気を博したがそれはFPSゲームをプレイするゲーマーのあいだでのことであって、それに比べると教室での利用を想定した『フード・フォース』はより一般へのシリアスゲームの普及に貢献したと言える。多言語に対応しており、日本語版にはKONAMIが関わっている。

『フード・フォース』のオープニング画面(インターネット・アーカイブより)

ここまで見てきたことからわかるように、2000年代初頭のシリアスゲームに対する大きな関心には半世紀にわたる産業界と学術界の連携の前史がある。第二次世界大戦直後にアメリカ軍がオペレーションズ・リサーチの研究室をジョンズホプキンズ大学内に設置し、コンピュータを用いた教育目的のシミュレータが多数開発された。『アメリカズ・アーミー』はこの軍によるゲームの教育的利用という50年前の目的を率直に反復したものだといえる。一方、『ザ・オレゴン・トレイル』は大学生たちのアイデアから始まり、ミネソタ教育コンピュータ協会(MECC)が提供するネットワークを利用して全ミネソタ中で利用されるようになった。こちらは学校の教室で使うことを前提にしており、その点で『フード・フォース』がその理念を継承しているといえるだろう。軍によるゲームの教育への利用という起源と、それとは別に非軍事部門による学校の教室での利用という2つの系譜があり、本稿が紹介する『Prisoner in My Homeland』はこの後者の系譜に位置する。

次回は、『Prisoner in My Homeland』とこのプロジェクトを行っているミッションUSの取り組みを、今回議論したアメリカにおけるシリアスゲームの歴史を通して解説する。


(脚注)
*1
日系移民の歴史や強制収容については貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』(岩波書店、2018年)の第4章「日本人移民と二つの世界大戦」が入門的な内容で手に入りやすい。また本書はアメリカの移民史の入門書としても優れている。

*2
U.S. Congress, Office of Technology Assessment, A History of the Department of Defense Federally Funded Research and Development Centers, Washington DC: U.S. Government Printing Office, 1995, pp. 12-20.
https://www.princeton.edu/~ota/disk1/1995/9501/9501.PDF

*3
Herman W. Miles, Defense Documentation Center (U.S.), Operations Research: An ASTIA Report Bibliography, Virginia: Armed Services Technical Information Agency, 1962, p. 28: Dorothy K. Clark, Archie N. Colby, Paul Iribe, Nicholas M. Smith, and Lloyd D. Yates, Hutspiel: A Theater War Game, Operations Research Office at the Johns Hoplins University, 1958, pp. 1-16.
https://archive.org/details/hutspiel-a-theater-war-game/

*4
Damien Djaouti, Julian Alvarez, Jean-Pierre Jessel, and Olivier Rampnoux, ‟Origins of Serious Games,” in Serious Games and Edutainment Applications, London: Springer, p. 6.
https://www.ludoscience.com/files/ressources/origins_of_serious_games.pdf

*5
Clark C. Abt, Serious Games, New York: The Viking Press, 1970: Djaouti, ibid., p. 6.

*6
Djaouti, ibid., pp. 8-14.

*7
藤本徹「第14章 シリアスゲーム」、デジタルゲームの教科書制作委員会『デジタルゲームの教科書:知っておくべきゲーム業界最新トレンド』SBクリエイティブ、2010年、229-246ページ。以下の2002年以降のシリアスゲームの流行についての記述は本書による。

※URLは2022年7月13日にリンクを確認済み