「マンガ」という語から大抵の現代人が思い浮かべるのは、コマ割りされ、絵と吹き出しによって物語が進んでいく「ストーリーマンガ」だろう。しかし、辞書にはもうひとつの意味として「諷刺画」が挙げられている。幕末から明治期における西洋文化の流入のなかで、現代の「マンガ」とは異なるかたちで確立されようとしていた当時の「漫画」。美術とジャーナリズムが重なり合う領域でその成立に積極的に関わっていたのが石井柏亭だ。版画、洋画に加えて漫画を制作し、美術評論家としても筆を執った彼の活動をたどりながら、国内における「漫画」の成り立ちについて論じていく。

石井柏亭《自画像》1930年(昭和5年)

2022年初頭に発売された宮内悠介のミステリ『かくして彼女は宴で語る 明治耽美派推理帖』(幻冬舎)は、明治末に実在した耽美派芸術サークル「パンの会」に集う少壮の画家や文学者たちが、安楽椅子探偵ものの古典、アイザック・アシモフ『黒後家蜘蛛の会』のフォーマットを踏襲するかたちで推理合戦を行っていく連作ミステリだ。のちに探偵小説作家としても知られることになる医学生の木下杢太郎を語り手としたこの作品は、端正な本格ミステリであると同時に日本の近代文学、美術の開拓者たちの青春期を描く物語でもある。

「パンの会」は1908年(明治41年)に石井柏亭、木下杢太郎、山本鼎、森田恒友、北原白秋などの美術家、文学者が立ち上げた私的な交流会で、前年に石井と山本、森田が立ち上げた美術雑誌「方寸」(註1)の関係者と「スバル」に拠っていた木下、北原らが意気投合したことで始まった。当時の日本は、近代的な学制や出版などのメディア環境が徐々に整備されるいっぽう、変化し続けるヨーロッパ文化の最新動向が次々ともたらされ続けているという、いまだ制度としての「文学」や「美術」が構築期にある時代だ。

じつはこの連作の登場人物のうち、「方寸」(註2)の関係者たち、特に石井柏亭は日本における「漫画」概念の成り立ちにも大きく関わっている。本稿はその柏亭と明治期の「漫画」概念との関わりを検討するものである。

石井柏亭《しらみ》、「方寸」2巻1号、1908年(明治41年)
石井柏亭《小閑》、「方寸」1巻4号、1907年(明治40年)
森田恒友《看守》、「方寸」1巻1号、1907年(明治40年)
山本鼎《途上小観―雨やどり》、「方寸」1巻3号、1907年(明治40年)
以上4点、出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク

「漫画」とは何か

2020年代の現在、日本国内で「マンガ」とはほぼマンガ雑誌に掲載されているストーリーマンガのことを指し、戦後であっても70年代頃までの諷刺漫画やイラストレーション的な表現も含んでいたこの言葉のニュアンスとは異なる(註3)のだが、「ストーリーマンガ」というフォーマットも考え方もまだ存在していない20世紀初頭の日本における「漫画」はほぼこの現在の用法とは無関係なものだ。

国内において「漫画」という用語を現在につながる近代的な視覚表現を意味するものとして使用しはじめたのは、福沢諭吉の甥で福沢が創刊した『時事新報』の漫画欄を担当した今泉一瓢だとされている(註4)。このことから、明治期の「漫画」は、まず欧米の報道、出版文化の移植のプロセスのなかで新聞掲載の諷刺画やイラストレーションを指す用語が必要とされたことから生じたものだといえる。

ただ、いっぽうで現在のマンガ史理解においては、日本国内に初めて欧米の近代的な諷刺画、漫画を持ち込んだ人物は1857年(安政4年)イギリスの新聞『Illustrated London News』紙の駐在特派員として来日したイギリス人画家チャールズ・ワーグマンだということになっている(註5)。ワーグマンは自身が居住していた横浜の外国人居留地に住む英語読者向けに諷刺雑誌「JAPAN PUNCH」を刊行し、これが「日本で刊行された最初の漫画雑誌」と位置づけられるのだが、同時に彼は幕末から明治維新期における洋画家たちの師でもあった(註6)。幕末から明治期にかけては日本社会が西欧文明を盛んに輸入、移植しようとした時期であり、五姓田義松、高橋由一といった日本における西洋絵画の先駆者たちがワーグマンに師事したのも、この時期に国を挙げて行われていた「文化・制度としての西洋美術」を日本に移植しようとするプロセスの先駆的な事例のひとつであったといえる(註7)。

先に述べたような「マンガ」概念の歴史的な変質の結果、大衆文化としての「マンガ」と芸術としての「美術」はまったく異なるもの、時に対立するものとして捉えられすらする(註8)現在、このワーグマンの存在まで立ち返ったとき、私たちは日本における近代的な「漫画」と「西洋美術」、その双方の祖としてこのイギリス人が現れてくることにある種の戸惑いを感じずにはいられないだろう。

「不純」な領域

マンガ研究者の宮本大人は2003年に発表した論文「「漫画」概念の重層化過程―近世から近代における―」(註9)にて、明治期の日本では今泉一瓢のような海外留学経験者をはじめ西洋美術の影響から絵画に興味を持ち、新聞や雑誌の「漫画」の制作を担った若い美術家たちが多かったことから、西欧からの「漫画」の移植はジャーナリズム、出版の側面からだけではなく、じつは「美術」のラインからも影響があったことを指摘している。宮本はこの西洋美術の「漫画」への影響の遠因を黒田清輝をはじめとする日本洋画界における新派の形成に見るが、ここでは宮本のいう美術とジャーナリズムが重なり合う「不純」な領域としての「漫画」の成り立ちに、「美術」側からより具体的に関わったと考えられる石井柏亭の業績を通じて論じていく。

本稿において筆者が石井柏亭を焦点人物に選択していることにはいくつか理由がある。まず彼が初の「漫画史」を冠した著作として知られる1924年(大正13年)刊行の細木原青起『日本漫画史』(註10)に先んじて1918年(大正7年)から美術批評誌「中央美術」(註11)にて「本朝漫画史」(註12)と題する連載を持っていたのをはじめ、美術批評家としての論考、著作の執筆においてたびたび「漫画」を俎上に挙げていること。また、柏亭は実作において「方寸」に限らず「トバエ」や「サンデー」といった雑誌でも漫画作品を発表しており、彼自身が「漫画家」として認識された(註13)側面を持つ。のちに国営の美術公募展である日展に対抗するかたちで立ち上げられた美術団体、二科会設立に参加した際には、公募展の部門として「漫画」部門を設けてもいる。つまり、明治・大正期の日本美術界において石井柏亭は、非常に早い段階から理論家、実作者の両面で「漫画」に積極的に関わりを持ち続けた人物だといえるのだ。

柏亭、石井満吉

石井柏亭、本名、石井満吉はアーネスト・フェノロサが龍池会にて「美術真説」と題した講演を行い「日本美術」という概念が自律を始めた1882年(明治15年)に日本画家、石井鼎湖の息子として生まれた(註14)。幼少期から父の指導で絵に親しみ、1892年(明治25年)に父、鼎湖が大蔵省印刷局の職を失うと印刷局の彫版見習い工として働きながら日本美術協会や青年絵画共進会に作品を出品するようになる。1897年(明治30年)には父を亡くしたいっぽう、浅井忠に入門、浅井から西洋絵画を学び、1900年(明治33年)には結城素明らの无声会に参加、新日本画運動の一翼を担う。洋画においては1902年(明治35年)に太平洋画会に参加。

1904年(明治37年)に印刷局を辞して中央新聞に入社すると東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝、藤島武二らに指導を受けるが、眼病を患い新聞社の職と学籍をともに退き、大阪の姉を頼って療養しながら1900年(明治33年)与謝野鉄幹が創刊した文芸誌「明星」に詩と挿絵を発表するようになる。

ある程度健康を回復して東京に戻った1907年(明治40年)、東京美術学校で知り合った山本鼎、森田恒友と「方寸」を創刊。

「方寸」創刊号、1907年(明治40年)
出典:ジャパンアーカイブズ

現在この雑誌は創作版画運動の先駆けと見られることが多い(註15)が、実際の紙面や柏亭自身による回想などを見る限り、「方寸」同人たちはこの雑誌を「漫画雑誌」と考えていた節がある。特に石井柏亭は1971年に刊行された『柏亭自伝』のなかで「「方寸」のモデルは独逸の「ユーゲント」仏蘭西の「ココリコ」その他の漫画雑誌にあった。」(註16)とはっきり書いており、彼が「方寸」での活動を「漫画」と関連づけて考えていたことは疑いない。

創作版画運動とは、浮世絵等の近世までの伝統的な木版印刷における分業制に対して、すべての工程を作者が担う「自画・自刻・自擦」を創作者が掲げ、「複製芸術」としての「版画」の価値を主張する美術運動だが、少なくともこの運動の先駆けとなった柏亭らはそこでの自分たちの表現を「版画」の運動としてだけではなく「漫画」としても捉えていた。では、そこでいう「漫画」とはなんなのか? ということである。

柏亭にとっての「漫画」

美術批評家、研究者としての石井柏亭は『西洋美術論』(註17)、『美術の常識』(註18)といった西洋美術を日本の読者向けに紹介する性格をもったいくつかの著作で、「西洋美術」における「漫画」がどのようなものかを具体的に論じている。

例えば『西洋美術論』においては「挿畫を説くにつれて漫畫と云ふものにも觸れなければならぬ」と説き、挿画と関連するものとして「漫画」を位置づけたうえで、有力なヨーロッパの「漫畫」の描き手として、イギリスのホガースやローランドソン、クルックシャンクといった現在でも諷刺画家とみなされている画家だけでなくスペインのゴヤ、フランスのドーミエ、ロートレックといった、現在の「マンガ」観からは「漫画」はもちろん「諷刺画」ともみなしがたい作家たちの名を次々に例として挙げていく(註19)。つまり、柏亭はヨーロッパの絵画的伝統のなかに存在する特定の「ある領域」を「漫画」という名で呼んでおり、しかもその「ある領域」は彼にとっては現在いうところの「諷刺画」とは必ずしも一致しないということになる(註20)。

辞書的な定義としての「漫画」は「単純・軽妙な筆致で描かれた、こっけい・誇張・諷刺・ナンセンスなどを主とする絵」(註21)の意味を第一義としており、用法としては「カリカチュア」の訳語として使われることも多い、これはおそらくワーグマン以来の「ジャーナリズムにおける漫画」のイメージがそこに反映されているからだろう。

しかし、少なくとも1907年(明治40年)の柏亭たちにとって「漫画」はジャーナリスティックな「諷刺」とイコールで結ばれるようなものではなかった。

漫畫と云ふ名稱によつて私は可なり廣い範圍の畫を包括しやうとする。私自身の定義では漫畫と云ふのを必ずしも普通考へる様な道化たもの又は諷刺的のものとばかり限らない。と云つて又それは『北斎漫畫』の漫畫の意味でもない。一口に曰へば裃を着ない、規則に拘泥しない、主として人間生活の自由な觀察と描寫とを擅にしたものを指すのである。人間以外の生物でもこれに人間的情懐を寄せた場合立派に漫畫の資格を具備することが出来る。

これは「中央美術」で連載された「本朝漫画史」第一回(註22)の「漫畫」を定義した部分だが、彼がギャグや諷刺を「漫画」の必要条件としていないことはわかっても、「人間生活の自由な觀察と描寫とを擅にしたものを指す」ということの実態は、これだけではいまひとつ曖昧である。むしろ、この記述は先に見た『西洋美術論』における柏亭の西欧における「漫画」の理解と対照させることで、それが題材面では一種の風俗画を指すのではないかということが明確になってくるような性格のものだ。

「美術史」の成立と若い芸術家たち

石井柏亭が美術批評家として活動を始めた20世紀初頭(註23)は「日本美術」が現在あるような文化、制度として確立されていなかっただけでなく、ヨーロッパにおいても「美術史」研究の学問としての方法論的な整備・体系化がまだ確立されていない時期だった。「様式の学」としての美術史研究を確立したとされるハインリヒ・ヴェルフリンの著作『美術史の基礎概念』が刊行されたのが1915年(大正4年)であり、現在のようなかたちで体系化、定式化された「西洋美術史」自体がそこにはまだ存在していなかった。逆にいえば、まさに「美術史」が学問として確立されていこうとしていた時期のヨーロッパ美術の知識や最新情報を、時差を伴いながらも浴びるように享受していたのが、この時期の若手の画家や文学者たちだったのだ。

『かくして彼女は宴で語る 明治耽美派推理帖』の第一話には語り手の木下杢太郎がヨーロッパから最新の美術動向を持ち帰った美術評論家、岩村透の著書『巴里の美術学生』を通じ「カフェで談笑するパリの芸術家」に強い憧憬を抱くようになった心情が描かれている(註24)が、岩村のような外遊経験者の言葉や輸入された美術雑誌の紙面を通して西欧的なアーティストのライフスタイルや新しい美術や文学の動向に触れ、杢太郎や柏亭のような芸術家たちはそれに強い憧れを抱き、大きな刺激も受けていた。特に20世紀初頭のヨーロッパはドイツ語では「ユーゲント・シュティール」、フランス語で「アール・ヌーボー」と呼ばれる美術の新潮流がその全域を席捲していた時期であり、その動向を伝えるフランスの「ココリコ」、ドイツの「ユーゲント」、「パン」といった美術雑誌の影響は大きく、「方寸」や「パンの会」といった彼らの活動自体が多分にその影響下で構想されている。

ここで重要なのは、先に見たように柏亭がこれらヨーロッパの美術雑誌を「漫画雑誌」と呼んでいることだろう。『西洋美術論』の記述において彼が「漫画」を挿画と関連づけて語っていたことから見ても、柏亭のいう「漫画」は様式的にはこれら同時代のヨーロッパの雑誌群を彩ったイラストレーションのスタイルからイメージされたものだと考えてもよいのではないか。

「ユーゲント」創刊号、1896年
出典:Heidelberg historic literature – digitized
『パン』1895年4・5月号
出典:Heidelberg historic literature – digitized

「本朝漫画史」とは何か

柏亭の「本朝漫画史」は、鳥羽僧正の鳥獣戯画を起源に置き、鳥羽絵、大津絵、なまず絵などといったその時々の「漫画」を挙げていくことで「本朝」の「漫画」の歴史を描き出そうとする叙述のスタイルをとっている。これは一見すると現在もよくあるマンガを日本の絵画的伝統の文脈に回収しようとする類の議論であるように見えるが、ここまで述べてきたような石井柏亭の「漫画」理解を念頭に置いた場合、このプロセスはむしろそうしたナショナリスティックなマンガの起源論とはむしろ真逆の発想に基づくものであるように思える。つまり、柏亭にとって「漫画」はあくまでもまず西洋における「美術」の一部であり、彼が「漫画」を論じ、また実作する意図は、西欧の「美術」を当時の日本に移植することにあったと考えられる。

彼の「本朝漫画史」はその「西洋美術の一ジャンルとしての漫画」を過去の日本における絵画作品に遡行して適用し、当てはめていくことによって「本朝」の「漫画」を歴史化しようと試みたテキストだといえる。そして、このような国内の絵画的伝統の歴史化への志向とその方法としての「様式」への意識は彼が「ユーゲント」や「パン」を通じて触れた同時代のヨーロッパにおける「美術史」構築の動きに触発されたものだろう。少なくとも柏亭においては「鳥羽僧正若しくは高山寺の動物人物戯畫巻」を「漫畫」とみなす(註25)基準は「西洋美術」を規範としたものだったことになる。

年末に初の外遊を控えた1910年(明治43年)、石井柏亭は3月26日付の『東京朝日新聞』に「日本畫と云ふもの(上)」という記事を発表している。このテキストのなかで柏亭は「古來の支那日本の繪畫を装飾畫及漫畫として面白いものと思つて居る」と書いていた――つまり、ここで彼は伝統的な中国や日本の絵画はそれ自体が「装飾畫及漫畫」だといっているのだ。まだ純粋美術(fine art)と商業美術(commercial art)の区別も曖昧だったと思われるこの時期に書かれた「装飾畫及漫畫」という言葉にはおそらく宮本のいうような「不純」さへの屈託は含まれてはいない。そこにあるのは日本やアジアの絵画的伝統を西欧美術の概念や方法で再点検し、ヨーロッパとアジアの「美術」をつなごうとするグローバルな意識なのではないだろうか。


(脚注)
*1
「方寸」は少部数印刷の同人雑誌で、寄稿者たちによる批評や展評などが記事として掲載されただけでなく、石井、山本、森田ら寄稿者たちの手によるカットやイラストレーションが紙面を飾っていた。これらにはタイトルやキャプションがつけられたものが多くあり、彼らはこれを「漫画」と呼んでいる。また、毎号オリジナルの木版画が付録としてつけられていた。

*2
同誌は当時の美術関係者から「美術漫畫雑誌」とも呼ばれている。野田宇太郎『日本耽美派文學の誕生』河出書房新社、1975年、443ページ

*3
戦後の日本における「マンガ」観の変遷については、小田切博「「マンガ」という自明性――ガラパゴス島に棲む日本のマンガ言説」、ジャクリーヌ・ベルント編『世界のコミックスとコミックスの世界――グローバルなマンガ研究の可能性を開くために』京都精華大学国際マンガ研究センター、2010年(http://imrc.jp/images/upload/lecture/data/4小田切.pdf)参照。

*4
鈴木隆敏編著『新聞人 福澤諭吉に学ぶ』産経新聞出版、2009年、48-50ページ

*5
須山計一『日本漫画100年』芳賀書店、1968年、15ページ

*6
高橋由一「高橋由一履歴」、匠秀夫『日本の近代美術と幕末』沖積舎、1994年、241ページ

*7
2015年に神奈川県立歴史博物館で開催の「没後100年 五姓田義松 ─ 最後の天才 ─」展、2012年に東京藝術大学大学美術館で行われた「近代洋画の開拓者 高橋由一展」など回顧展が開催され、近年これらの日本近代洋画の先駆者たちへの関心が高まり、その再評価が進んでいる。

*8
このような立場をとる代表的な著作として辻惟雄『日本美術の歴史』(東京大学出版会、2005年)が挙げられる。辻は同書の428ページにおいて「少し前までは若者を相手にしたサブカルチャーの次元にとどまっていた」マンガ、アニメを自身はあえて美術として扱う旨の記述をしている。

*9
宮本大人「「漫画」概念の重層化過程―近世から近代における―」「美術史」154号、2003年、319-334ページ

*10
細木原青起『日本漫画史』雄山閣、1924年

*11
1915年に日本美術学院を版元として劇作家、小説家の田口掬汀を編集長として創刊した美術批評誌(のちに版元は中央美術社に変更)。

*12
「本朝漫画史」は「中央美術」4巻1~3号、5、6号(1918年)、5巻1~5号(1919年)に全10回が連載された。

*13
実際に彼の「漫画」作品は『現代漫画大観』第十編(中央美術社、1928年)に収録されている。

*14
石井柏亭のプロフィールについては石井柏亭『柏亭自伝』(中央公論美術出版、1971年)のほか、石井柏亭『日本絵画三代志』(ぺりかん社、1983年)の匠秀夫による「解説」214-217ページを参照している。

*15
「創作版画と新版画」NDLイメージバンク、2022年4月14日
https://rnavi.ndl.go.jp/imagebank/column/post-27.html
成相肇「創作版画(運動)」artscape
https://artscape.jp/artword/index.php/創作版画(運動)

*16
石井、1971年(註14)、197ページ

*17
石井柏亭『西洋美術論』河出書房、1940年

*18
石井柏亭『美術の常識』東治書院、1933年

*19
石井柏亭、1940年(註17)、135-137ページ

*20
「本朝漫画史」においては「道化たもの又は諷刺的のものとばかり限らない」といっているいっぽう、『美術の常識』では「西洋のカリカチュア(英、佛 Caricature, 獨 Karicatur)が大體之に相當する」(183ページ)とも書いているため、柏亭自身、この辺りの認識は時期によって異なるとも考えられる。

*21
「漫画(まんが)」『デジタル大辞泉』小学館
https://dictionary.goo.ne.jp/word/漫画/

*22
石井柏亭「本朝漫画史(一)」「中央美術」4巻1号、1918年、139ページ

*23
石井柏亭の美術批評家としてのキャリアは1902年(明治35年)の「明星」への寄稿に始まる。

*24
宮内悠介『かくして彼女は宴で語る 明治耽美派推理帖』幻冬舎、2022年、9ページ

*25
石井、1918年(註22)、139ページ

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