昨今、国内で数多く公開されるようになってきた海外の長編アニメーションだが、お披露目の場となる国際的なアニメーション映画祭、さらには制作の現場において、2020年以降、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響が生じている。このような状況で変化したこと、生まれたものについて、キーとなる作品を挙げながら論じていく。

『幾多の北』(2021年)より
©Yamamura Animation / Miyu Productions

国内における海外長編アニメーションの充実

2019年末、本サイトにて、「日本でこれから観られるべき、海外長編アニメーションの新しい傑作たち」というタイトルで、これから注目すべき海外長編アニメーションについて紹介した。その際、日本において過去例を見ないほどに海外作品が劇場公開されていると書いたが、喜ばしいことにその状況は続いている。記事で紹介した作品のなかでも、『FUNAN フナン』(2018年)、『Away』(2019年)、『新しい街 ヴィル・ヌーヴ』(2019年)がいずれも2020年に国内で公開された。『シチリアを征服したクマ王国の物語』(2019年)も、2022年1月に公開が予定されている。

2020年から2021年にかけても、『ウルフウォーカー』『ジュゼップ 戦場の画家』『整形水』『カラミティ』など、本稿の主旨的に推したい作品が次々公開されている。『ファンタスティック・プラネット』(1973年)、『ベルヴィル・ランデブー』(2002年)といった過去の名作もリバイバル公開され、大人向け長編アニメーションをめぐる状況は一回りし、厚みを増しているように思われる。

『ジュゼップ 戦場の画家』より

新型コロナウイルス感染症による影響

一方、前回の寄稿時には予想もしていなかった、あまり喜ばしくない事態もある。新型コロナウイルス感染症による影響である。当初は映画館も休館を余儀なくされるなど、映画興行自体が危機的状況に陥った。今は映画館の安全性が証明され、ほとんどの映画館が営業できるようになったが、それでも席数が半分に限られたり、そもそもの自粛ムードのなかで集客が思うようにいかなかったりといったことが起こっている。

海外アニメーションに関する諸々を生業としている僕のような人間にとってより深刻なのは、海外の映画祭に参加できなくなったことだ。2020年はほとんどの国際映画祭が現地開催を取りやめてオンラインに移行するなど、いつもとは違うかたちで開催された。オンライン映画祭には良い点もあって、普段であれば海外まで足を伸ばせない人たちが新しい作品に触れることができるようになる。しかし、長編アニメーションに関しては、作品の戦略的な理由で、オンラインでの上映に許可が下りず、地域制限がかかってしまうことが多い。

2021年に入ると、ヨーロッパを中心に現地での開催を探る映画祭が出てきた。それはもちろん喜ばしいことだが、日本から参加するというのはかなりハードルが高い。長編アニメーションに関していえば、世界最大のアヌシー国際アニメーション映画祭が新作長編アニメーションの集中する機会だ。2020年の本映画祭はオンラインのみの開催で、長編に関しては権利的に問題ない作品はフルで観ることができたが、予告編や一部抜粋のみしか観ることのできないものも多かった。2021年のアヌシー国際アニメーション映画祭は現地とオンラインのハイブリッド開催だったのだが、長編部門は現地のみの上映で、そもそもオンラインでは観られない仕様になっていた。

現地での制限つきの開催やオンライン映画祭に欠けてしまうのは、人々のあいだのコミュニケーションだ。映画祭に参加すると、国籍もバックグラウンドも違う数百人の観客とともに映画を観て、場を共有する。オンライン映画祭の観客は自分だけで、自分の判断や反応が絶対になってしまうが、現地で観ると、それが覆されることがある。場の空気が、作品の善し悪しを変えてくれるのだ(僕自身はそれはとても歓迎すべき喜ばしいことだと思っている)。

良い作品の噂が熱気とともに飛び交い、それを共有した参加者の思い出として残る。アヌシー国際アニメーション映画祭でいえば2018年の『フナン FUNAN』、2019年の『失くした体』、これらのクリスタル(グランプリ)作品は、(監督がフランス人ということもあっただろうが)現地参加者に大きな感銘を与え、映画祭の空気自体もつくり上げていた。オンライン映画祭ではそういうことが起こらないのだ。

前置きが長くなってしまったが、主にヨーロッパの海外アニメーションシーンを眺める人間にとって、2020年以降は、なかなかその潮流が掴みづらい状況が生まれてしまっている。作品に生で触れる機会を奪われ、映画祭で出会う信頼する関係者たちとのコミュニケーションが途切れるなかで、アニメーション関係者が共有する「空気」みたいなものが消えてしまった。そもそも、このコロナ禍のなか、映画が完成していたとしても映画祭でのお披露目を控える作品もある程度あったようだ。長編アニメーションは、制作者たちにとっては決して小さくないリスクを抱えてつくられるものである。少しでも理想的な状況のなかで世に問いたいと考えるのも無理のないことである。その結果、映画祭を起点に商業的に勝負を賭けるタイプの作品の数も減ってしまっている。

「実験」により生まれた新しいスタイル

ただ、このような状況のなかで、元気な潮流がある。それは、「実験」の場にある。

海外長編アニメーション、とりわけ大人向けの作品は、21世紀に入って急速に表現の進化を遂げてきた。制作プロセスがデジタル化され、それまでよりも少ない労力で長編がつくれるようになることで、これまでとは違ったタイプの作品が出てきた。世界的な動向として大人数でつくられる3Dアニメーションが標準化するなかで、とりわけ、比較的少ない人員でつくられる、デジタル2Dドローイングやアナログな手法を用いる作品が目立つようになった。

『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』(2016年)の監督セバスチャン・ローデンバックは、長編アニメーションは長いこと新しい文法を生み出してこなかったと言っていた。実写映画であればゴダールの登場や、ドキュメンタリー映画の隆盛で、いわゆるメインストリームとは違った文法でつくられる作品が出てきたのに、アニメーションはそういうことが起こってこなかったというのだ。

『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』より

しかし今、小規模体制での長編アニメーション映画が数多くつくられるなか、これまでのアニメーション映画とは根本的に違うタイプの作品がつくられるようになったという。そういうローデンバック本人の長編は、物語自体はグリム童話を原作とし、旧来的なファンタジー性の強いアニメーションの路線に乗りつつも、筆ペンを用い、本人が「クリプトキノグラフィ」(静止画のレベルでは何が描いてあるかわからず、動きのなかで見て初めてわかるもの)と呼ぶやり方で、全編一人で作画するという実験精神があった。

2021年、その「実験」は、さらに先へ、極北へと大胆に踏み出しつつある。これから紹介する2本の長編作品を観ると、これまでの長編アニメーションの多様化というのはビジュアル面・作画面のものでしかなく、今ようやくこれらの作品によって、アニメーション映画は本当の意味で新たな文法を生み出しつつあるのだと言いたくなってくる。

1本目は中国の作家シ・チェン(Xi Chen)のCG長編アニメーション『Chicken of the Mound』だ。同氏は近年、独特のCGアニメーション作品を精力的に発表している注目の作家だ。

『Chicken of the Mound』より

アヌシー国際アニメーション映画祭やオタワ国際アニメーション映画祭にノミネートされた本作は、長編として2本目にあたる。惑星と交尾して物語を生み出すクラゲ、カニ型ロボットと鶏型ロボット、美少女たちのあいだの戦い……。『Chicken of the Mound』はその場その場で起きる出来事を把握するのは容易で、しかしその全体としてのあらすじを把握するのが難しいという、不思議な鑑賞体験を提供する。

シ・チェンは画家でありアニメーション作家でありゲームデザイナーでもあるが、本作にはそのすべての要素が入り混じっている。絵(油絵がCG空間のなかに張り込まれている)がキャラクターを生み出し、CGでモデリングされたキャラクターたちは不可視のプレイヤーに操作されたかのごとく、奇妙に気持ちの良い動きで不気味に関係しあう。難解な作品に思えるかもしれないが、個々のシーンはエンターテインメント的であり、派手なバトルシーンも多い。SFロボットアニメや美少女アニメの記憶に重ね合わせて見ることができる。

シ・チェンの短編作品は、SNSやゲーム文化の影響をモチーフとして取り上げる諷刺性を前面に押し出す。この不思議なバランスの本作で最終的に明らかにされるこの世界の仕組みは、まさにその集大成と言えるもので、時に刺激の強い本作の映像を「楽しめて」しまうことに対して、観客はそれで良いのだろうかと反省を促されるだろう。CGアニメーションを用いた個人表現は成長著しい分野だが、コンテンポラリーアートの文脈でも活動する作家による本作の登場によって、またさらに深みがもたらされたと言ってもよい。

もう1本取り上げたいのは、日本とフランスの国際共同製作作品『幾多の北』(2021年)だ。

『幾多の北』(2021年)より
©Yamamura Animation / Miyu Productions

言わずとしれた短編アニメーションの巨匠・山村浩二による初の長編である本作は、もともとは『文學界』の表紙として2年半のあいだに描かれた数々の絵をベースにしている。

本作を観て思い出したのは、2020年、短編作品『ゆめみのえ』(2019年)をリリースした山村監督と話した際、「実写映画の真似ごとではない、本当の意味でアニメーションによってしか可能にならない映画を目指している」と言っていたことである。昨今の長編アニメーションのなかには、実写映画の文脈と交差する作品も多かった。ロトスコープを用いてつくられた『音楽』(2020年)や、Blenderを使って実写的な3D空間をつくった『失くした体』(2019年)といった作品がその代表だ。『Away』もドキュメンタリーのカメラワークを模している。そのどれもが、立体的な空間(つまりは現実空間の模倣)を前提に、それに対して映画的・アニメーション的文法を駆使するというものだった。

対して『幾多の北』は、あくまで「絵」としての空間を保持する。いや、それだと「絵画的」だとか、イラストレーションが動いたようなだとか、そういった風に理解されてしまうのかもしれないが、そうではない。「アニメーションが絵に描かれたものであるかぎりにおいての必須条件としての絵」だからこそつくり出せる空間を活用するのだ。長編アニメーション作品を作るのに、僕たちが暮らすボリュームのある空間を模倣する必要はないのだ、と高らかに宣言するかのごとく。

『幾多の北』より

ウィレム・ブロイカーの陽気だが哀愁ただよう音楽が流れるなか、ナレーションが字幕として定期的に画面に現れて観客をガイドし、そして絵のなかでは不思議な存在感をもった不思議なキャラクターたちがその独自の世界法則に従って生きる(その点で本作は幾分『Chicken of the Mound』に似ているとも言える)。短編であれば見慣れているかもしれないやり方が長編の尺にまで拡張されたとき、ここに生まれたのは、アニメーション表現の歴史のなかでこれまで観たことがないようなタイプの現実感を生み出す作品だ。

かつてアニメーションの実験場は短編アニメーションだった。しかし今、長編アニメーションを小規模・個人でつくる流れが生まれたことで、長編というフォーマットだからこそ可能になる実験もまた、本格的なものになりつつある。この2本が見せるその可能性というのは、長編は、長い時間をかけることによって、不可思議なキャラクターたちに実在感を与え、本来的には不条理にも思える世界観もまたその時間のなかで観客にとって「当たり前」のものとできるフォーマットであるということだ。不可思議なるものに生命を与え、その生命感が、観客の生きる世界に対しても何かしらの問いかけをするようになる。たとえそれが夢のようであったとしても、その世界に手触りと感触を与えることができるのだ。

パーソナルな関係を丁寧に描く

実験性という意味では上記の2本に及ばないかもしれないが、「個」の世界を濃密に描くことで、長編アニメーションに新しい親密さとエモーションを注ぎ込む2作も、紹介しておきたい。

まずは『Elulu』(2020年)。チリの映像作家ガブリエル・ヴァルドゥゴ・ソト(Gabriel Verdugo Soto)が8年もの期間をかけて、女性キャラクターの声以外の要素をすべて自分自身でつくり上げたCGアニメーション長編だ。実写も交えた映像美がある本作は、完成に近づいた2019年にチリでの政情不安があったり、2020年以降のコロナ禍の状況によって、監督自身の心が折れ、一時はお蔵入りになりかけたようなのだが、2021年の今、ザグレブ国際アニメーション映画祭でのプレミア上映を皮切りに、アヌシー国際アニメーション映画祭、オタワ国際アニメーション映画祭と主要なアニメーション映画祭を席巻しつつある。

失業状態にある若い宇宙物理学者が久しぶりに生家に戻ってくると、おそらく癌で死んだ母親を描いた絵から、母親の姿が消えている。絵のなかの母親は、謎の生命体Eluluによってこの世に生を与えられ、そして息子と再会する。60分を少し超えるくらいのこの長編は、息子の視点と同じくらいに、絵から蘇らされたスモールサイズの母親から見た世界を丁寧に描く。ゆっくりとしたペースで進む映像は、暮らすもののいない時間の止まった家にもたらされた特別な時を濃密に描き出す。おそらくパーソナルな経験をベースにつくられたであろう本作は、たとえ拙いところがあったとしても、本物のエモーションを随所から滾らせ、それによって観客の心に触れてくる。

『Elulu』より

パーソナルで親密なスペースを描く作品としてもう一本注目しておきたいのは、『新しい街 ヴィル・ヌーヴ』の監督フェリックス・デュフール=ラペリエールの長編2作目『Archipelago』(2021年)だ。ロッテルダム国際映画祭でプレミア上映された本作では、男と女が、架空の群島(archipelago)について会話を交わす。黒を基調としたビジュアルで展開されるのは、話す二人の姿というよりも、その二人が親密なダイアローグを交わすなかで二人だけのあいだで共有される島の姿であり、観客はそれを覗き見するような感覚に陥る。コロナ禍において、他人との交流が途絶え、家族や恋人など親密な関係性にある人物と過ごす機会が増えている人が多いと思うが、本作はそんな時代の空気にも合っている。

『Archipelago』より

本質的にはつくりものでしかないという性質があるゆえか、アニメーションは観客が理解・共有しやすい空間をつくり上げることが多い。しかし一方で、本質的にはつくりものでしかないゆえに、一見するとわかりにくいかもしれないが、しかし語られるべきものにあわせて個別にカスタマイズされるかのように、丁寧にこしらえられたパーソナルな世界をつくることもまた、アニメーションの優れた可能性のひとつである。それは、本当は一人ひとりが違った内的世界に生きているはずの私たちの存在をそっと肯定するものでもある。コロナ禍のなか、アニメーションの世界に光り輝くのは、目立たないかもしれないが、鈍くそっと光る、珠玉のような作品たちなのだ。

※URLは2021年10月19日にリンクを確認済み