アニメ・特撮・ゲームなどのメディア芸術の世界における「音」の表現を切り拓いてきた先駆者にお話しをうかがうインタビュー連載。今回は、2020年にデビュー20周年を迎えられた神前暁さんが登場する。ゲームメーカーのサウンドクリエイターとしてキャリアをスタートし、後に作曲家に転身。以降、次々と大ヒット作の音楽を手掛け、2000年代、2010年代のアニメソング・アニメ劇伴界を代表する作曲家となった。大ヒットアニソンの知られざる誕生秘話から、DTM(デスクトップミュージック)世代ならではの作曲術まで、丁寧に語っていただいた。

神前暁さん
以下、撮影:畠中彩

音楽やアニメ、ゲームとの出会い

幼い頃の神前さんと音楽との出会いについてお聞かせください。

神前:まずはヤマハ音楽教室の幼児コースに3歳から通ってリズム表現や音感のレッスン、ピアノやエレクトーンなどを習っていました。よく覚えていないんですが、どうやら自分から行きたいと言ったようです。3歳なので、なぜ音楽教室に行きたいと思ったのかもよくわからないんですが、おそらくはテレビのアニメや人形劇の影響なんだろうと思います。NHKの『プリンプリン物語』(1979〜1982年)が特に好きでしたね。両親は音楽の専門家ではないんですが、クラシックギターをやっていたので、高名なクラシックギター奏者のナルシソ・イエペスのレコードなんかも日常的に流れていましたし、曲を弾いてもいました。あとはバロック音楽が好きだったようですね。普通の歌謡曲ももちろん流れていて、母がチェッカーズや安全地帯が好きで家事をしながらよく歌っていました。そういう感じで、ピアノは子どもの頃から弾けましたけど、特に音楽家になることを意識するようなこともなく、小学5年生くらいで一旦辞めてしまいます。とにかく練習が嫌いだったので、教室に行っては怒られて帰ってくることの繰り返しでしたね(笑)。

子どもの頃によく見ていたアニメ、遊んでいたゲームなどは?

神前:アニメだとやはり『スプーンおばさん』(1983〜1984年)などのNHKの夕方の番組が印象深いですね。あとは『Dr.スランプ アラレちゃん』(1981〜1986年)、『名探偵ホームズ』(1984〜1985年)など、普通に子どもがみんな観ているような番組が好きでした。ゲームでいうと、父親がNECのPC-9801(1982年発売)を持っていたので、かなり早い時期からピンボールなどの単純なPCゲームをやっていました。意味がよくわからないながらもゴルフやフライトシミュレーターなんかも勝手にいじったりもしていました。『ザナドゥ』(1985年)みたいなロールプレイングゲームも、メニュー画面が英語でチンプンカンプンなんですけど、なんとなく触っていましたね。友達の家ではトミー(現タカラトミー)の「ぴゅう太」や、任天堂の「ファミリーコンピュータ」ももちろんやっていました。初めて買ってもらったファミコンソフトは、おそらく『ドラゴンクエストII 悪霊の神々』(1987年)だったと思います。

中学・高校時代は、何か音楽活動をされていたのでしょうか?

神前:ピアノはやめてしまっていましたけど音楽への興味は続いていたみたいで、中学で吹奏楽部に入ってトランペットを担当して、高校まで続けていました。トランペットを選んだ理由は……、派手だったのでやってみたいと思ったのか、先輩にやれと言われたのか、あんまり覚えてないんですよ。そもそも入部した時は、吹奏楽でどんな楽器を使うのかもよくわかっていませんでしたね。トランぺットの「ド」とピアノの「ド」が違うことに、2年経ってようやく気づいたくらいでしたから(笑)。

その頃には自分で好みの音楽を聴くようにはなっていましたけど、本当にバラバラでした。まずはカシオペア(現CASIOPEA 3rd)やTHE SQUARE(現T-SQUARE)などのフュージョン。自分が器楽をやっていたので、歌のないテクニカルな演奏のバンドが好きでした。あとは当時普通にはやっていたTM NETWORKや米米CLUBなんかのJ-POPももちろん聴いていましたし、小学生の頃から南野陽子さんが大好きで、力強くも物悲しい雰囲気の歌に憧れていました。特に萩田光雄さんが編曲を担当された歌が好きなことに気づいて、「編曲」という仕事を意識したのもそれが最初だったかもしれません。あんまり男子は聴かない光GENJIなんかも、シンセサイザーの多い編曲が素晴らしいことに気づいてよく聴いていましたね。なので、弾き語りのシンガーソングライターの歌よりは、しっかり構築されたシステマティックなサウンドに惹かれていたんだと思います。

ゲームの音楽にも興味を持っていました。先ほども言ったように、家にPC-9801があったので、プログラミングで音楽をつくるという仕組みにも興味がありましたし。父が買っていたパソコン雑誌「マイコンBASICマガジン」に毎月ゲーム音楽のプログラムが載っていたので、それを自分で打ち込んで鳴らしてみたりもしていましたね。ゲームセンターで筐体のスピーカーに耳を付けて聴いたりもしていました(笑)。ただし高校までは、自分がつくり手の側になるとイメージすることは、ほとんどなかったと思います。

同人作曲サークルで曲づくりを開始

では、いつ頃から音楽をつくることを意識されたのでしょうか?

神前:もともと数学が得意で、古文・漢文が大の苦手という面もありましたけど、人間の視覚や聴覚に関する認知科学という領域の勉強をしてみたかったので、大学は京都大学工学部情報工学科に進みました。大学でも吹奏楽をやろうと一旦入部したんですけど、ちょっと他のサークルも見てみようと物色していたら、「吉田音楽製作所」というオリジナル楽曲限定の軽音楽部みたいなサークルがありました。今でいう同人作曲サークルみたいなものですね。その新入生歓迎ライブを観に行ったら、好きなフュージョンのバンドもあれば、P-MODELみたいなテクノユニットもあるし、演劇みたいな要素を取り入れたパフォーマンスもあり、とにかくバラエティ豊かで。自分がそれまで聴いたことのない音楽を一気に見せられて、かつ、それを自分と歳の変わらない人たちが自作していることに衝撃を受けたんですよね。それで吹奏楽の方は断って、そのサークルに入りました。それまで自分で音楽をつくったことなんて一度もなかったんですけどね。当時の軽音楽部はやはりバンド演奏から入るのでコピーバンドが主流でしたし、しかも洋楽至上主義みたいなところがあったんですが、そのサークルは自作曲限定ですし、それこそ理系的でマニアックなものづくりに興味を持った人が集まっていたので、向き不向きでいえば、自分にはとても向いていました。

大学入学のときに、音源とシーケンサー(音楽を自動演奏させるプログラミング機器)が一体になっているローランドのシンセサイザー「JV-1000」(1993年発売)を買ってもらい、そこで初めて「打ち込み」で音楽をつくる環境を手に入れました。そこにカセットテープの4チャンネルMTR(マルチトラックレコーダー)を組み合わせて、作曲サークルでの活動に参加しはじめたかたちになります。今でいうDTM(デスクトップミュージック)が民生用の機材でもそれなりのクオリティでできるようになった黎明期のことでした。でも、先ほども言ったようにとにかくバラエティに富んだ音楽ジャンルを扱うサークルだったので、自分で組んだバンドも、アイドル歌謡、ヘヴィメタル、ノイズ、ジャズ、ファンクなどのあらゆるジャンルの音楽を企画的に手掛けていて、いわゆる打ち込みのシンセ系の音楽だけをやっていたわけじゃないんですよ。「今回はジャズをやるぞ!」となったら、ジャズのCDをいっぱい聴いて勉強して、そのエッセンスを作品に込めていくような。歌や演奏の上手さを見せたいのではなく、アイデアやアレンジをおもしろがってほしい、そんなプロデュース型のバンドをやっていました。ジャンルにこだわらない音楽を聴いて「それっぽく」アレンジしていく……。この時期のこういう活動には、かなり鍛えられたと思います。でも逆に、一点を深く掘り下げる活動はしていなかったので、後年苦労することにもなるんですが(笑)。

大学時代に、自主制作映画の音楽を担当されたそうですが……。

神前:現在、映画監督・アニメ監督として活動されている山本寛さんとは高校時代からの同級生で、大学も同じでした。彼がいたアニメーション同好会が自主制作映画を撮るときに、音楽を付けてほしいと依頼を受けました。それが『怨念戦隊ルサンチマン』(1997年/企画・監督・編集:山本寛)という作品です。なぜか悪の首領役で出演までさせられて、本当にお恥ずかしい(笑)。東映のスーパー戦隊シリーズをパロディにしたアマチュア特撮作品『愛國戰隊大日本』(1982年/監督:赤井孝美、メカニック・デザイン:庵野秀明、制作:DAICON FILM)を、さらにパロディ化するという、なかなかこじれた作品でしたけど、いわゆる劇伴=映像のための音楽をつくったのはこれが初めてだったと思います。

この頃の音楽のつくり方はとにかく既存の音楽を聴いて、そのスタイルを模倣することでしたね。ジャンルを決めて、特徴的な音色や和音などの表現をなぞっていくかたちですが、私は正規の音楽教育を受けたわけではないので、そもそも模倣する能力もそんなに高くはありませんでした。譜面はほとんど扱っていなくて、バンドでライブをするときにメンバーに演奏内容を伝えるパート譜を書いていたことがあるくらいです。譜面で作曲するということは、いまだに一度もやったことがありません。在学中にはアルバイトしながらローランドのシンセサイザー「XP-50」(1995年発売)や、AKAIのサンプラー「S3000XL」(1996年発売)、ローランドのデジタルMTR「VS-880」(1996年発売)などの機材も少しずつ増えていきました。特に「S3000XL」を使えるようになったことで、扱えるジャンルがぐっと広がりましたね。

所属していた作曲サークルは、私が入部した時点ですでに10年分くらいの先輩がいるサークルでしたけど、部員の作品を集めたデモテープを毎月発行していて、そこにOB会員も参加されていたので、在学生以外の先輩とも交流がありました。大学生レベルを超えた社会人の先輩の作品に刺激を受けることもありましたね。さらにそのデモテープの内容を批評し合う会報誌も発行していたので、そこでもらう意見もずいぶん勉強になりました。

作曲を始めたのは大学のサークル活動がきっかけだったという神前さん

仕事を通して「音楽」に向き合う

大学卒業後は、ゲームメーカーに就職されたそうですが……。

神前:漠然と音楽に関わる仕事に就きたいと思っていたので、大学卒業時の就職活動として、レコード会社や楽器メーカーのヤマハやローランドなども受けていました。面接では、人工知能を使った自動マスタリング機能のアイデアをプレゼンテーションしたんですが、当時は「そんなもの必要ない」と一笑に付されてしまいましたね。これがここ数年、音楽業界では注目の新技術になってきているので、20年を経て「それ見たことか!」と思っています(笑)。そうこうしている間に、大学時代の作曲作品のデモテープを提出していたゲームメーカーのナムコから内定をいただきました。もともとナムコで「リッジレーサー」シリーズや「鉄拳」シリーズを担当されていたサウンドクリエイターの佐野信義さん(註1)の音楽が好きだったので、一緒に仕事ができればと思い、ナムコさんに就職することに決めました。

当時のナムコでは音楽の作曲とSE(効果音)の制作の担当が分かれていなかったので、ゲーム内のサウンドに関するものは、声優さんによる声の収録やMA(マルチオーディオ)での全体的な整理まで含めてすべてやりました。最初にOJTのようなかたちで『アクアラッシュ』(2000年)というパズルゲームのBGMを担当しました。それまでの音楽づくりの手法とはまったく違うので、まずは開発環境やゲームへの組み込み方を覚えることで手一杯でしたね。この頃は、プログラムで発音させる昔ながらの仕組みから、あらかじめレコーディングした音声をストリーミング再生する仕組みへの過渡期で、ゲーム音楽界にとっても大きな変革の時期でした。『アクアラッシュ』はまだプログラミングで鳴らしていたので、表計算ソフトのExcelで膨大な数字の表をつくって作曲していくんですが、中高生の時にPC-9801でそういう作業は経験していたので、それ自体はそう難しくはなかったですね。

大学での活動と、仕事として作曲を行うことの一番の違いは、「オーダーに応える」ということです。仕様や要望に合わせて音や曲をつくり、期限までに納品する。それが先方のイメージに合わない場合はダメ出しや却下をされるわけです。自分なりのアイデアに自信を持って提案しても、認識のズレがあれば簡単にひっくり返されてしまう可能性もある。今となっては当たり前のことですが、当時は初めての経験でした。あとは、周りの先輩方のクオリティが圧倒的に高いことに驚きました。たとえばテクノ風の曲をつくるにしても、テクノに詳しい先輩のほうがやっぱり自分よりもずっとカッコいいんですよね。大学での経験もあって、いろんなジャンルを器用にこなす自信はあったんですが、それぞれのジャンルに対する理解の深さが足りないことをあらためて自覚して、これはヤバいぞと焦りました。先ほど言った、一点を深く掘り下げていないこと、音楽を雑食してきた弊害にここでぶつかるわけです。そこからあらゆるジャンルの音楽を一から聴いて勉強し直しました。恥ずかしい話、ビートルズもその時に初めて本気で聴いたんです。ビートルズなんて教養の世界の音楽であって、自分の音楽と地続きであるはずがないと思い込んでいたんですが、聴き込むとやはりいろんなもののルーツがそこにあるんですよね。音楽の歴史的な連なりがようやく実感できるようになったのが、この時期です。

ナムコでのお仕事で、特に印象に残っているものは何でしょうか?

神前:初めてすべて一人で担当させてもらったパズルゲーム『ことばのパズル もじぴったん』(2001年)がやはり印象深いですね。パズルゲームなのに歌ものが多かったり、渋谷系っぽいことしていたり、今聴き直しても、自分のやりたいことを好きにやっているなと思います。今話したような、まさに猛勉強中の時期の作品なので、自分の芯にある裸の部分が出てしまっているような気がします。あとは子どもの頃大好きだった『パックマン』(1980年)、『マッピー』(1983年)、『ドルアーガの塔』(1984年)等の初期のナムコ作品の音を、当時使われていたPSG(Programmable Sound Generator/ゲーム音声をつくり出すための電子回路)の波形にまでさかのぼって再現するような、古き良きナムコサウンドに対するオマージュを込めてもいます。ほかには格闘ゲーム「鉄拳」シリーズの音楽ですね。『鉄拳タッグトーナメント』(1999年)から参加して、『鉄拳4』(2001年)、『鉄拳5』(2004年)、『鉄拳 DARK RESURRECTION』(2006年)まで長く関わらせていただきました。こちらはわりとハードなテクノやブレイクビーツもの、ミクスチャー・ロックなんかが多くて、正直自分の得意分野ではなかったんですけど、そういう領域のものを仕事としていかにクオリティを維持しながらつくるかということを、佐野信義さんたち先輩から学ばせていただきました。

私の場合、頭の中にメロディが降ってくるようなタイプの作曲家ではなくて、全体のサウンドイメージとかジャンルとか、表現したいシーンとのマッチングのような総合的な枠組みから発想していくタイプだと思っています。ただ、メロディへのこだわりは強いので、最初はよくある感じのつまらないメロディであっても、そこは時間をかけて試行錯誤しながら磨いていく……、そんなつくり方ですね。まずはピアノを弾きながら鼻歌でメロディを考えて、それをデータとしてシーケンサーに記録して、「ここは上にいくべきか、下がるべきか……」みたいに一音一音いじって、歪なところを直して、平凡なところを工夫して……。そのブラッシュアップにかなり時間をかけます。ですので、さまざまな可能性をシミュレーションしながら音楽をつくることができるDTMというツールがなければ、プロの作曲家にはなれていなかったと思います。羨ましいですよ、メロディが降りてきたり、楽譜で作曲ができたりしちゃう人が。この連載に前回出てらした田中公平さん(註2)とは、まるで対極にあるタイプの作曲家なんだと思います(笑)。

神前さん「私の場合、頭の中にメロディが降ってくるようなタイプの作曲家ではないんです」

独立直後に参加したアニメが大ヒット作に

2005年にはナムコを退社して作曲家として独立されますが、どのような心境の変化があったのでしょうか?

神前:少しずつ会社以外の仕事や自分のほかの可能性にも挑戦してみたくなって。実はナムコ在職中から、J-POPアーティスト作品のコンペに応募したりしていたんですが、全部落選していましたね(笑)。そのうちに、当時、京都アニメーションさんに所属していた山本寛さんが、OVA作品『MUNTO〜時の壁を越えて〜』(2005年)の音楽をやってみないかと声をかけてくれました。ほぼ同時期に、以前ナムコの上司だった岡部啓一さん(註3)が音楽制作会社MONACAを設立されたので、そういうことなら一緒にやってみるかというお話しをいただき、ナムコを退社し、MONACAに合流する形で独立することとなりました。

独立直後、テレビアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006年)という大ヒット作と巡り会うわけですね。

神前:そうですね。参加させていただいた作品がいきなり大ヒットして驚きましたし、山本さんと京都アニメーションさんとのご縁があったとはいえ、私のような実績のない新人をよく採用していただけたなぁと、今でも思っています。京都アニメーションさんにとっても飛躍の機会となった作品だと思いますし、そこに参加できたのは本当に嬉しかったですが、当時の私としてはとにかく、やれることを精一杯淡々とやっていたという印象です。

基本的には劇伴音楽の担当でしたが、劇中歌がいくつか出てくるので、自然にそれも担当することになりました。そのひとつの「God knows...」という挿入歌が、バンドの演奏シーンを丹念に描いた京都アニメーションさんの作画の力と相まって、オリコン週間シングルチャート5位という予想もしない大ヒットになりました。この曲が流れるエピソードがテレビ放送された直後に、いち早くCDを発売するという決断・準備をしたレコード会社さんの判断もすごかったですね。ただ、先ほどから話しているとおり、こういうバンドサウンドは私にとっては完全にアウェイのジャンルでして、「God knows...」も必死に勉強して書いた曲です。もっと言えば、スタジオにミュージシャンの方を呼んで、バンド形式でレコーディングをすることすら、初めての経験だったんです。そのためのパート譜の書き方もよくわかっていない状態でした。もう不安しかありませんでしたね(笑)。

皆さん、「God knows...」というとギターが印象的だと思いますが、私自身ギターは弾けませんし、ギターってDTMとの親和性が良くない、最も打ち込みで表現しにくい楽器なんですよ。なので、スタジオでギタリストさんが音を出すまで、完成形が見えないことが多いんです。でも「God knows...」でお願いしたギタリストの西川進さんは、「長門という宇宙人の高校生の女の子が弾くフレーズなのでバカテクです。めちゃくちゃ難しくカッコいいフレーズにしてください」と説明しただけで、その場であのイントロのフレーズをつくってスっと弾いてくれたんです。すごいですよね。ベースの種子田健さん、ドラムの小田原豊さんとの、たった3人だけの演奏なのに、それぞれの音が立っているし無駄がまるでない。バンドサウンドってこれだよな……というバランスが瞬時に出来上がっちゃったんですよ。そのあまりの手際の良さと迫力に、私はスタジオの隅であっけに取られていました(笑)。

管楽器や弦楽器は、楽譜のとおりに演奏していただくことが大事なんですが、エレキギター、エレキベース、ドラムなどのリズムセクションは逆で、そのミュージシャンの方が持っている音楽性をどれだけお借りできるかが肝要なんです。まさに餅は餅屋です。こんなふうに、スタジオでミュージシャンの方の力量を加えて曲の完成度をグンと引き上げるという経験自体が、私にとっては初めてだったわけで、本当に刺激的なレコーディングでした。この曲はあらゆる意味で、私の人生を変えてくれましたね。


(脚注)
*1
ゲームミュージックの作曲家。元ナムコのサウンドクリエイター。現株式会社DETUNE代表取締役。「佐野電磁」「sanodg」の名義でも活動している。

*2
作曲家。アニメやゲームの音楽を多数手掛ける。代表作はゲーム『サクラ大戦』(1996年)、アニメ『ONE PIECE』(1999年~)、『ジョジョの奇妙な冒険』(2012年)オープニングテーマ「ジョジョ~その血の運命~」など。詳細は「音を極める――メディア芸術の音を創造した人々 第1回 作曲家・田中公平」(https://mediag.bunka.go.jp/?post_type=article&p=16708)参照。

*3
作曲家、プロデューサー。元ナムコのサウンドクリエイター。2004年に有限会社MONACAを設立。代表作はゲーム「鉄拳」シリーズ、「太鼓の達人」シリーズ、アニメ「WORKING!!」シリーズ、「結城友奈は勇者である」シリーズ、ゲーム「NieR」シリーズなど。


神前 暁(こうさき・さとる)
作曲家、編曲家、プロデューサー。大阪府出身。京都大学工学部情報工学科卒業。ナムコ(現バンダイナムコスタジオ)を経て、2005年秋よりMONACAへ参加。
http://www.monaca.jp/member/

2020年3月には作曲家デビュー20周年を記念して、これまで手掛けた楽曲を収録した「神前 暁 20th Anniversary Selected Works “DAWN”」が発売された。写真は歌ものと劇伴音楽の5枚のディスクで構成される限定盤(7,000円+税)。通常盤(3,900円+税)は歌ものが3枚のディスクにまとめられている
https://kosakisatoru-20th-anniversary.com/

※URLは2021年6月16日にリンクを確認済み